結婚生活8
下着と言っても差し支えないような薄物の白い服を着た女性が冷たい大理石の上に突っ伏していた。
たった独りで小さく嗚咽を漏らしながらむせび泣いているその女性は、以前にも見たことがあった。私の夢の中で。
ということは、私はいま夢を見ているのだろう。
私の記憶違いでなければ、たしか長い金髪の彼女は、私と同じ水色の瞳をしていたはず。
あまりに夢見が悪かったので、鮮明に憶えている。
だけど、以前の夢と違って、今度は私がその場にいる感じがした。
もしかして彼女に声をかけられるだろうか?
「ねえ。あなた、大丈夫?」
大丈夫なわけないだろうと自分で自分にツッコミを入れつつ、彼女に近づいてみる。
もしこれが以前に見た夢の続きなのだとしたら、彼女は密通したことを夫になじられて離縁を申し渡されたのが理由で泣いているはずだ。
「ああ、シュリア……!」
私の声に反応して顔を上げた彼女の瞳は、やっぱり水色だった。
髪の色と瞳の色は私と同じだけど、彼女は私とはまったく違って神話に出てくる女神の娘かと思うような美貌の持ち主だった。
同じように人の形をしていても、こうも違うものかと悲しくなってくる。
……まあ、それはいいけど。
「どうして私の名前を知っているの?」
「ずっと一緒にいるんですもの。名前だけじゃなくて、あなたのことなら全部知っているわ」
涙で瞳を潤ませたまま、彼女はちいさく笑って見せた。
「ずっと一緒にいるって……、どういうこと? あなたは誰?」
「私はリィリス・ミスティア・デュ・プルウィア。あなたの真珠に宿っている者よ」
「……えっ?」
思わぬ答えに、頓狂な声が出てしまった。
「真珠に宿っている魂の人? すごく屈辱的で不幸な死に方をしたっていう?」
ただの私の夢だから、どこまでが本当かどうかなんて分からないけど。
密通して離縁を申し渡されたとしたなら、たしかに屈辱的で不幸と言えるかもしれないけど、それはただの自業自得なんじゃ……。
あまり……というか、まったく同情できないなぁ。
どことなく白けた気持ちでリィリスと名乗る女性を見やる。
彼女の目にはみるみるうちに涙が溜まっていき、しずくが頬を伝った。
「私、不貞なんてはたらいていないわ」
「でも、疑われるようなことをしたんじゃないの?」
「何もしていないわ! 私は何も……!」
そう言って、リィリスは再び床に突っ伏してしまった。
「ああ、ごめんなさい。ちゃんとあなたの話を聞くわ。だから、そんなに泣かないで」
リィリスの背中をさすりながら声をかける。
だけど、リィリスはなかなか顔を上げてくれなかった。
「あなたがやましいことは何もしていないっていうのは、きちんと夫である人に説明しなかったの? 最初は頭に血が上っていて冷静に考えられなかったとしても、少し時間が経てば聞く耳も持ってくれたんじゃない? あなたたち、お互いに愛し合って結婚したんでしょう?」
そう。私は以前にも彼女の夢を何度か見たことがある。
なぜかすべてはっきりと憶えていた。
誕生日の贈り物に薔薇を欲しがった夢。
恋人と同じ景色を見るために乗馬の練習をする夢。
あれは、彼女が《真実の雫》に宿っている魂だから見た夢だったのだろうか。
リィリスは突っ伏したまま、首を激しく左右に振った。
「愛してなんかいなかったの」
「どういうこと? あなた、いつも幸せそうだったじゃない」
「私だけだったの……。彼のことを愛していたのは私だけで、彼は私のこと、愛してなんかいなかったの……」
「それはあなたの言うことを信じてもらえなかったから? 世の中、誤解なんていくらでもあると思うわ。それだけで愛していないなんて決めつけるのはもったいないわよ」
「違うのよ……。そうじゃないの」
そう言って、ようやくリィリスは顔を上げた。
とめどなく流れる彼女の涙を見て、私はふと思った。
強烈な胸の痛みと共に流れだした突然の滂沱の涙は、私のものではなく、リィリスのものだったのではないかと。
「私、密通なんてしてないの。そうじゃなくて、暴漢に襲われたの。しかもそれは、アルが仕組んだことだったの……っ」
「え……と、ごめんなさい。ちょっと意味が分からないわ。アルっていうのは誰?」
私の記憶違いでなければ、たしかリィリスに離縁を申し渡していた青年に対して、彼女がアルと呼びかけていた気がするのだけど……。
「アル……アルジェントは私の夫だった人よ」
「ええぇっ!? いや、ちょっ、ええっ!?」
もはや言葉が出てこないレベルで意味不明なんですけど。
いったいどういうことなの?
自分の妻をわざと暴漢に襲わせたってこと?
いやいや、そんなことある?
「アルは最初から私のことなんて愛していなかったし、最初から私を貶めるために私に近づいて結婚までしたの……っ」
声を詰まらせ、リィリスは両手で顔を覆った。
「どうしてそんなことを……」
ああ、もしかして、だから《真実の雫》は人の心を覗くのかしら。
あの真珠に宿る魂は、自分を貶めようとしていないかを確かめるために相手の心を覗くと聞いたもの。
本当にそんなふうに騙されて貶められたのだとしたら、理解できる気がする。
「アルは、本当は私ではなく、私の友人の恋人だったの……」
「えっ。どういうこと?」
もう頭の中がこんがらがりそうだ。
「私の友人が、私の家に復讐するためにアルを私に近づけたの。私を暴漢に襲わせるところまで、すべて彼女の計画だったのよ」
……私はもはや何も言葉が出てこなかった。
それが本当なら、彼女はなんという悲惨な人生を送ったのだ。友人にも夫にも欺かれ、貶められたなんて。
「離縁されて実家に戻った私は、けっきょく新しい結婚もできなくて」
うん。それはまあ、そうだろう。離縁された理由が密通だもの。貴族の令嬢としては人生が終わったようなものだ。
「父も母もおかしくなってしまって、怪しげな呪術師に散財した挙げ句に家も没落して、私はもう本当に体が切り刻まれているかのように辛くて辛くて耐えられなくて……身投げしてしまったの」
たしかにプルウィア家は没落して家名すら残っていない。かろうじてレールティ家に血は引き継がれているけれど。
「つらかったね……」
そう言って、彼女の背中を撫でてあげることしかできなかった。
私にはそれ以上の言葉が見つからなかった。
リィリスはうつむいて両手に顔を埋めたまま、囁くように言った。
「あのね、シュリア。アルの本名はね、アルジェント・エプリーゼ・デュ・メリディエルっていうのよ」