結婚生活7
子爵がベッドに腰かけて私に手を伸ばしてくるので、とっさに体を引いてしまった。
子爵は微苦笑をこぼし、今度はハンカチを差し出してきた。
涙を拭けってことかしら。
ハンカチを受け取るのは癪だったけど、か弱い女性を演じるなら受け取るべきだろう。
私は奥歯をギリギリ噛みしめながら、なんとか笑顔をつくってハンカチを受け取った。......けど、それで涙を拭く気にはなれなくて、けっきょく涙は放置することにした。どうせちょっと涙がこぼれたくらいだもの。そのうちすぐに乾くでしょ。自然乾燥で十分だわ。
「具合が悪いと聞きましたが、大丈夫ですか」
「先ほどは正餐に伺えず、大変失礼いたしました。具合が悪いと申しましても大したことはございませんので、ご心配にはおよびませんわ」
「あなたは随分と平気な顔で嘘をつくのですね」
どきっと、私の鼓動がはねた。
「それはどういう意味でしょう」
何かバレてしまったかと、後ろめたいことがありまくる私は気が気ではなかったけど、そんなことはおくびにも出さず、澄ました顔で訊き返した。
「本当は具合が悪いのではなく、水をかぶったのでしょう?」
あ、なんだ。そっちか。よかった。
無駄にびっくりさせないでほしいわ。
「なぜそれを?」
「レイルが言っていました」
……うーん。あの青年、良くも悪くも正直者ね。
もしイデルだったら、子爵に水をかぶったことは言わなかったはずだ。私は具合が悪いからと伝えるように言っただけだもの。個人的な思いはどうあれ、イデルなら絶対に余計なことは言わない。
レイルを私に付けたのは、おそらくこのシカトリス城を取り仕切っているリナベスさまだ。そういう意味では、レイルとは少し注意して付き合ったほうがいいのかもしれない。たぶん彼自身は、ただの善良な青年だと思うけど。そこを利用される可能性は大いにあるし、そのためにわざわざ彼を選んで私に付けた可能性すらある。
「私のせいで姫の不興を買ってしまったようで申し訳ない」
「はい?」
子爵の言葉があまりにも唐突すぎて、私は思わずキョトンとしてしまった。
「どういうことですの?」
子爵は小さく息をついた。
境守伯の息子である子爵は、れっきとした軍人でもある。境守伯領というのは国境にあるので、常に隣国との脅威に向き合っていなければいけない。そんな場所で軍人として生まれ育った子爵は、一見穏やかそうに見えても研ぎ澄まされた刃のような雰囲気が隠しきれなかった。
そんな彼が愁いを帯びた溜息をつけば、ただでさえ整った容姿をしているのだから、そのへんのご令嬢や貴婦人であれば心を奪われたに違いない。
残念ながら私は視線すら奪われないけどね。綺麗な容貌ならラウラスで見慣れているもの。
「そんなつもりではなかったのですが、朝食のとき、私がつい皆の前であなたに笑いかけてしまったから」
「……おっしゃっている意味が分かりませんわ」
いや、ほんとに全然意味が分からないんですけど。
笑っただけで不興を買うってどういうこと?
この家、お姫さまに呪われでもしてるの?
というか、そもそも何の話?
まさか、お姫さまの不興を買ったから、私が水をぶっかけられたとか言うんじゃないでしょうね?
「悪い方ではないんですよ。この家の守り神みたいなものですし。だけど、いろいろ不憫な方でね、少し過敏になっているところがあるから」
「子爵さま? まったくお話についていけていないのですが......。なぜあなたが私に笑いかけることがお姫さまの不興を買うことになるのですか?」
「姫は、後継者に選んだ者が誰かに愛情を向けることを嫌うのですよ。私の母も、それで命を落としたのです」
いや、ちょっとそれ……ほんとにリアルに呪われてるじゃないのよ……。
一生懸命に澄ました顔を維持しようとするけど、私の頬と口もとが引き攣っているのが自分でも分かった。
「えーと、それはつまりどういうことでしょう……?」
「つまり、私の母は父に愛されたから死に、リオンの母は愛されていないから生きているということです。メリディエル家の跡継ぎになる人間は、昔から愛のある結婚などしないのが普通です。結婚だけでなく、そもそも誰かに愛を捧げるようなことをしないのです。相手が死にますからね。もちろんそんなことは後継者に選ばれた人間しか知りませんが」
……え。怖っ。
水をかぶったときよりも寒気がして、私は思わず自分の腕をさすった。
「子爵は私のこと、愛していらっしゃいませんわよね? もちろん」
「そうですね。想像していたのと違って、ずいぶん可愛らしい方だとは思っていますけどね」
いや、全然思わなくていいです。
相手がラウラスならまだしも、そうじゃない相手に不本意に愛されて、不本意に死にたくないです。ほんとに。冗談抜きで。
子爵は私の反応を見てクスクスと笑っていた。
「ほんとに素直な可愛らしい方ですね。呪われた悪女の末裔というから、いったいどんな女性かと思っていたのですが。そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。今後は私も気をつけますから」
呪われた悪女の末裔?
いったいどういうことかと訊こうとしたときだった。
「い……っ!」
いきなり心臓や肺が雑巾絞りにされているかのような強烈な痛みが襲ってきて、私はたまらず蹲った。
痛すぎて息もできない。
何も悲しいことなんてないはずなのに、なぜか滂沱の涙が流れてくる。
「シュリア!?」
ああもう、不快だから私の名前を呼ばないでって言ってるのに。
文句を言いたかったけど、それどころではなかった。
痛くて苦しくて、呻き声すら出ない。
痛くてたまらない胸を押さえたいのに、なぜか私の手はブレスレットを触っていて、指が水宝玉を数えるように動いていることに気づいた私は血の気が引いた。
「子爵……さま……っ!」
ろくに息もできないなか、悲鳴を上げるように叫んだ。
「ブレ……ス、レットを……!」
家の紋章が刻まれている金のメダルから左に六番目。私の指がぴたりとそこで止まる。
私の意志に反して、指が勝手にブレスレットに仕込まれている毒を取り出そうとしている。
ブレスレットを外そうとしても、胸の痛みと相まって、手がまったく思うように動かせなかった。
「ブレスレットが何ですか!?」
さすがに異様な事態に動揺を隠せない様子の子爵が、私の背中に手を添えながら訊き返してくる。
私は息も絶え絶えに答えた。
「はず……して!」
「外せばいいんですね!?」
子爵が私の手首からブレスレットを取ると、私の手は追いすがるように子爵の手を掴んだ。
思わず返してという言葉が口をついて出そうになる。
でも、それは私の意志のはずがなかった。私がブレスレットを外してほしいと子爵に頼んだのだから。
体が引きちぎられるような思いをしながら、私は必死に子爵から手を離すと、そのまま気を失ってしまった。