結婚生活6
「いったいこれはどういうことですの!?」
レイルに案内されて部屋に入ってきたイデルは、私をひと目見るなり、まなじりを吊り上げて勢いよく振り返り、レイルに詰め寄った。
「正餐のために廊下を歩かれていただけで、どうしてシュリアさまがこんな姿になられるのですか! この城で働いている者たちの躾はいったいどうなっているのです! 城の中で頭上から水が落ちてくるなんて馬鹿なことがあるはずないでしょう! 今すぐ犯人を見つけ出してここに連れていらっしゃい!!」
烈火のごとく怒り狂うイデルを前にして、レイルは顔を強張らせてただ身をすくめていた。
レイルは二十代半ばといった感じのおとなしそうな青年だ。
対するイデルは私と同い年だけど、ブリアールの薔薇と呼ばれるくらいの美貌の持ち主で、服も私のおさがりを着ているから、何も知らない人はイデルのほうをブリアール侯爵令嬢と勘違いするくらいの威厳が滲み出ている人物だ。もともと男爵家の生まれだから気品もあるし、彼女に凄まれたら、大抵の人間は押し黙るしかないだろう。
レイルにとっては災難としか言いようがない。
「イデル、おやめなさい。レイルは何も悪くないのだから。それより早く着替えたいわ」
「申し訳ございません。すぐに」
そう言って頭を下げたと思ったら、イデルはすぐさま顔を上げて、早く出ていけと言わんばかりにきつい視線をレイルに向けていた。
ほんとにとんだとばっちりで、レイルが気の毒だわ……。
「レイル、ありがとう。子爵さまへの伝言お願いね。あと、今回のことは何も気にしなくていいから。気に病まないでね」
イデルのほうをちらちらと見ながら、レイルは深々と頭を下げて退室していった。
やれやれ……。レイルにはとんだ災難だったけど、私はこれで堂々と正餐に行かずに自由時間を過ごせるわ。
開放感から、思わず伸びをしてしまう。
「……シュリアさま? なにを呑気にしていらっしゃいますの? こんな仕打ちをお受けになっているのに」
「仕打ちって言ってもねぇ。私は正餐に行かなくてすんでラッキーなだけだし」
ずぶ濡れになら、つい先日も水路に落ちてなったし。
一食抜くのだって、ラウラスとの旅で慣れたし。
ほんとにどうってことないのよね。
さすがにそこまではイデルに言えないけど。
「そういう問題ではございませんでしょう。今はメリディエル家の人間になられたとは言え、シュリアさまはもともと侯爵家の人間なんですよ。しかも、外務卿であるブリアール侯爵の愛娘。こんなことが許されるとでもお思いですか」
イデルの声は怒りのせいか小さく震えていた。
それでも手早く私の濡れた髪や体をきれいに拭いてくれて、キャナラが持ってきてくれた新しい衣装に手際よく着替えさせてくれる。
「許されるか許されないかで言えば、許されないんだろうけど、こういうのはカリカリしたほうが負けなのよ。腹を立てたところで、相手が喜ぶだけなんだから、イデルも素知らぬ顔をしていなさい」
「ですがっ!」
「大丈夫。あまりにひどかったら、あとでまとめてお兄さまに報告するわ。レールティ家が侮られるようなことがあってはいけないもの」
あと、離縁の口実にもしてやるから。
私は残念ながらそのへんのか弱いご令嬢とは違って、図太いのよ。
こんなことでめそめそ泣いたりしないし、打ちひしがれたりもしないわ。
「それにしても、思ったより力技できたわねぇ」
睨まれるとか嫌味を言われるとか陰口をたたかれるとかのレベルなら覚悟していたけど、まさかいきなり水をぶっかけられるとは思わなかったわ。しかも、この真冬に。
「ほんとうにどういう了見なんでしょう。信じられませんわ。これからは私たちも家の方々の動向に気をつけておきますわ」
イデルがそう言うと、キャナラも深く頷いた。
「なにか軽食のようなものでも召し上がりますか」
「いいわ。私は具合が悪いということにしているし、部屋に戻って休むわ」
イデルとキャナラに付き添われて部屋に戻ると、私はベッドに寝転がった。
シュリアの体に戻ってからまだたった半日ほどしか経っていないのに、なんだかいろいろありすぎて疲れてしまった。
寝返りを打って、鏡台の上に置いてある薔薇の瓶を眺める。
ラウラスは私のこと、まだ憶えてくれているかなぁ。
シュリアとしてラウラスと言葉を交わしたのは、もう一年以上も前だ。
もしかしたら私の声は、もう忘れられているかもしれない。
私はミルテとしてラウラスのそばにいたけど、ラウラスにとってミルテはミルテで、私とは全然関係のない人間。
だから、私とラウラスの間は一年以上まったくの空白で、何の思い出もない。
ほんの少しでもいいから、ラウラスの中に、まだ私の居場所って残ってるかなぁ。
いつも私のためにブリアールの庭園に花を咲かせてくれていたけど、私がいなくなったら、私のためという理由もなくなって、私という存在は完全に忘れ去られてしまうのかもしれない。
それでも、いつか私がブリアールに戻るまで、ラウラスはそこにいてくれるだろうか。
……でも、その頃にはラウラスも可愛い奥さんをもらっているかもしれないな。
それはそれで仕方ないし、ラウラスが幸せならそれでいいなとも思うし、寂しいと思ったことがないという孤独な彼には、むしろ早く幸せになってほしいとすら思う。
ラウラスに愛される人はどんな人だろう。
きっといつも、あの穏やかな緑の瞳をまっすぐに向けてもらえるんだろうな。そうして、優しく抱きしめてもらえるんだろうな。いいな。
考えているうちに目頭が熱くなって、涙がこぼれてしまった。
でも、きっとそれが現実。いくらブリアールに戻ったところで、私が彼の隣にいる未来はない。
いったい私のこの想いはどこに行きつくんだろう。
「泣いているんですか?」
いきなり声が聞こえて、ぎょっとして飛び起きた。
「い、いつの間に……っ」
この人は神出鬼没なの!?
私のすぐそばには、なぜか少し困った顔をしているエスカラーチェ子爵が立っていた。