結婚生活5
子爵の言っていたように、今日は私には何の予定もないということなので、午前中は部屋に引きこもって今後のことを考えていた。
今現在、このシカトリス城を取り仕切っているのは当主の正妻であるリナベスさま。ソルラーブ境守伯夫人だ。
それだけでも私にとってはかなりやりにくい。なにせ挨拶しただけで睨まれたくらいだし。
まあ、向こうからすれば、私は後継ぎという立場を奪った憎らしいエスカラーチェ子爵の奥方という立場なんだから、仕方ないと言えば仕方ないんだけど。
だけど、私だって望んでここに来たわけではないんだから、ちょっとうんざりする。
望んで来たどころか、ほとんど拉致監禁に近いのよ。
とにかく、このままいけばいずれ私がソルラーブ境守伯夫人になるから、本来であれば今からリナベスさまに教えを乞うておくべきなんだろうけど、生憎と私はソルラーブ境守伯夫人になるまで子爵の妻でいるつもりなど毛頭ない。
何が何でも離縁してやるつもりでいるもの。
でも、実家であるレールティ家には迷惑がかからないようにしないといけない。
とくに政治の中枢にいるお父さまの迷惑になるようなことをしてはいけない。メリディエル家は選定侯の家柄であり、境守伯なのだ。この国でもかなり大きな力を持っているから、問題を起こしてレールティ家と関係が悪くなるようなことがあってはならない。
レールティ家から来た嫁が毎日遊び暮らしているなんて言われても困るけど、このシカトリス城で出過ぎた真似をしたら、それこそ自分の立場を奪いに来た憎い嫁と認識されて面倒なことになりかねない。
……実際は、何をどうしたところで、悪く言われるのかもしれないけど。
とりあえず今のところ私はエスカラーチェ子爵夫人なので、やるとしたら子爵領の領地経営の補佐くらいにとどめて、シカトリス城のことには何も関わらず、何か言われたら動くようにしようという結論に落ち着いた。
子爵には、自分の補佐もしなくていいと言われてるけど……。
子爵にとって、私の価値はそんなところにないんだものね。
左手を顔の前にかざし、ブレスレットを眺める。
水宝玉が連なるなかで、一粒だけある薄紫色の真珠。ここにいったい誰の魂が宿っているというんだろう。
この真珠に宿る魂が誰のものかが分かれば、メリディエル家のお姫さまのことも分かるかもしれない。
いったい誰に訊けば分かるだろう。
お父さま? それとも、私の前の所有者だった伯母さま?
できれば直接会って訊きたいけど、忙しいお父さまにお会いして話をするのは難しい気がする。ここから都までは遠いし。
伯母さまはミスティア侯爵に嫁がれていて、都に比べればここから近いけど……。なにはともあれ文を差し上げてみようかしら。とにかく何か行動を起こさないと始まらないもの。
すぐさま伯母さまに文を書いていると、あっという間に着替えの時間になって、あれよあれよという間に正餐の時間が迫ってきた。
またあの地獄のような空気の中で、今度は長時間の食事をするのかと思うと気が滅入った。
すでに食欲なんてきれいさっぱりどこかに消え失せていて、逆に胃液が上がってきそうなくらいだ。
あー、もう食事抜きでいいから、部屋に帰りたいわ。
食事の間に向かって歩きながら、気分は拷問部屋に向かう囚人そのものだった。
いやいや、でも、これくらいで負けちゃダメよ。
黙って食べていればいいだけじゃない。大丈夫。楽勝よ。ちょっと睨まれるかもしれないけど、そのくらいどうってことないわ。平気よ。
どうせ私はここに馴染みたいわけじゃないし、私自身は嫌われても憎まれてもどうでもいいもの。お父さまに迷惑がかからない範囲であれば、だけど。
内心はげんなりしていたけど、そこはそれ。猫をかぶるのは得意なので、澄ました顔でしずしずと歩いていく。
そうして大階段にさしかかったとき、いきなり誰かの悲鳴が聞こえた。
同時に、私の体が異様に重くなった。しかも、冷たい。寒い。
何が起きたのかさっぱり分からなくて、私は呆然と立ち尽くしてしまった。
「大丈夫でございますか!?」
シカトリス城で私の従者を務めてくれているレイルが慌てた様子で声をかけてきたけど、なぜそんなことを訊いてくるのかすら分からないほど私は混乱していた。
なぜか廊下にぽたぽたと滴る無数のしずく。
……ほんとに、なんでお城の中に水溜まりなんかあるの?
というか、私が頭からずぶ濡れになってる??
私の髪や顎を伝って、次から次にしずくが落ちていく。
ふと顔を上げてレイルを見ると、彼の服も濡れていた。
「レイル? あなた、大丈夫? 服が濡れているわよ」
「いえっ、それより若奥さまのほうが……っ」
慌てふためくレイルがなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
意味不明すぎる事態に、私の頭がおかしくなってしまったのかもしれない。
それでもただひとつ、はっきり分かっていることがあった。
このままの恰好では正餐に行けないということだ。
「ねえ、レイル。子爵さまに、私は具合が悪くなったから正餐に行けないと伝えておいてもらえるかしら」
全身ずぶ濡れの状態から身なりを整え直すには、かなりの時間を要する。その間、ずっとメリディエル家の人たちを待たせるわけにはいかない。
私は改めて自分の足元に出来ている大きな水溜まりを見て、何とはなしに上を見上げた。
私の目にはとくに変わったものは映らなかったけれど、この大量の水は上から降ってきたということよね? たまたま私が通るタイミングで、私がずぶ濡れになる位置に。......って、そんなことある?
まさかお城の中で全身ずぶ濡れになることがあるなんて思いもしなかったけど……。正直言って、ラッキーだ。これで今日はあの地獄のような場に長時間拘束されないですむ。
「若奥さま、とにかくこちらへ。お風邪を召されては大変です」
「ああ、レイル。その若奥さまというのはやめていただけるかしら。シュリアと呼んで」
若奥さまなんて、寒気がするわ。
今はリアルに体が冷えているから、よけいに寒気がするし。
「では、シュリアさま、少しこちらのお部屋でお待ちください。すぐに侍女の方を呼んでまいりますので」
「どうもありがとう」
私の頭はまだ半分思考停止状態だったけど、素直に名前で呼んでもらえたのが嬉しくて、にこっと笑った。