月桂樹8
「私、どうしてこんなところにいるの? ここ、どこ?」
きっと、彼女の中ではナルーメアの近くで僕に道を尋ねたところで時間が止まっているに違いない。
彼女の中から、お嬢さまがいなくなったんだ。
「ここは都だよ。きみ、僕に道を尋ねた直後に気を失って、打ち所が悪かったのか記憶喪失になったんだよ。クレハールに行くって言っていたから、僕といっしょにここまで来たんだけど。憶えてない?」
憶えているわけがないことは分かりきっていたけど、敢えて尋ねた。
「そうなの? 全然憶えてないわ。ねえ、ところで私の荷物はどこ?」
僕がカバンを渡すと、彼女はすぐさまカバンの中を確認して書類を取り出し、ホッとしたように肩の力を抜いた。
「あなたがここまで連れてきてくれたの? ありがとう。なんだかずっと目眩がしてて調子が今ひとつで」
「きみは一人で旅をしていたの?」
「ええ、少しの間だけね。途中ですぐに仲間と合流する予定だったのよ」
「そっか。きっと一人で無理をしていたんだろうね。貧血を起こしていたんだと思うよ。その上に瀉血までしたら倒れるに決まっているよ」
ミルテは何でもよく食べていたし、出会った頃より顔色も断然によくなっているから、たぶんユリシアの体調面はもう心配ないだろう。
僕は自分の荷物の中から小さな麻袋を取り出して、ユリシアに渡した。
「もう大丈夫だとは思うけど、この先もクレハールまで行かなくちゃいけないんだろう? 念のためにこれをあげるから、持っていくといいよ」
「これは?」
「蓬だよ。貧血予防にいいから。...あと、僕が手配するから、クレハールまでは馬車で行って。心配だから」
お嬢さまを長距離歩かせてしまったという後悔の反動か、もうこのユリシアという人には一人で長距離を歩いてほしくなかった。
ユリシアは髪を掻き上げ、ベッドから立ち上がった。
ああ、ほんとうにミルテとは仕草も全然違うんだな。
「ねえ、あなたの名前は?」
「僕はラウラス。ラウラス・ウィリディリスだよ」
「ラウラス・ウィリディリス!? って、あの薬草の本を書いた!?」
いきなりユリシアが大きな声を出すものだから、僕は驚いてちょっと身を引いてしまった。
「え? ああ、うん。たしかに本は書いたけど……」
「ほんとにウィリディリス先生!?」
先生?
あまりの違和感に僕は思わず眉間にシワを寄せてしまった。それに……。
「いや、ごめん。申し訳ないんだけど、ファーストネームで呼んでもらえる?」
あの人と同じ名前で呼ばれるのは、どうしても抵抗がある。
「ラウラス先生?」
「いや、その先生もやめて。ただのラウラスでいいよ。僕はそんな大層な人間じゃないから」
「まあ! そんな…謙遜が過ぎるわ。あなた知らないの? あの本がどれだけ評判になっているか!」
ユリシアがこぶしを握って力説してくる。
ちょっと距離が近くて、僕はついあとじさってしまった。
「え? いや、……うん。正直なところ、全然知らない」
ブリアール城での謹慎処分をとく条件として、グラースタ伯爵に言われるままに書いただけのものだから、僕は後のことはとくに関知していなかった。
本の評判のことなんて、まったく考えたこともない。そもそも僕はずっとブリアール城で庭師の仕事をしていたし、王妃さまから呼ばれるまで本のことなんて忘れていたくらいだ。
「今までの薬草の本とは全然違って、ものすごく実用的で具体的に書いてあるから、とっても評判なのよ」
「そうなんだ」
「ずいぶん感動が薄いわね……。嬉しくないの?」
「とくには……」
「自分で本を書いたのに、変わった人ね。それよりあなた、ずいぶん若いのね。私とあまり変わらないんじゃない?」
僕は苦笑した。
あの本は、僕じゃなくて、グレン医師が書いたことにしたほうがよかったんじゃないだろうか。
ふとそんなことを思ってしまった。
「とりあえず、今日はもう遅いからゆっくり休んで。クレハールに行く手配は明日するから」
そうして、僕は荷物を持って部屋を出た。
なんとなく今のユリシアと同室で休むのは気が引けたし、ユリシアも嫌だろうと思ったのだ。
今思うと、ミルテはユリシアに比べてどこか少し幼い印象があった気がする。
改めて別室を借りて、僕は考えた。
お嬢さまがなぜミルテとして僕と行動を共にされていたのかも不思議だったけど、それ以上に不思議なのは、お嬢さまの婚約の話だ。
お嬢さまがミルテとしてずっと僕といっしょに旅をされていたなら、なぜブリアール侯爵令嬢とエスカラーチェ子爵との再婚約が成立したのだろう。
ミルテがシュリアお嬢さまなのだとしたら、再婚約を成立させたというブリアール侯爵令嬢は、いったい誰なのか。
それに、もう一つ気になるのは、ブリアール侯爵令嬢とエスカラーチェ子爵との婚約の話を聞いたときの、ミルテのあの動揺っぷりだ。
あの我慢強いミルテがあんなに悲痛な顔をして泣くなんて……。
ミルテは、……いや、お嬢さまは、子爵との結婚を望んではいなかったということなのだろうか。
もしも、望まない結婚なのだとしたら……。
ブリアール侯爵の話が僕の脳裏によみがえる。
真珠の継承者が望まない結婚をした場合、一年以内に亡くなる人が多いという、耳を疑うような話。
お嬢さまは、ほんとうに大丈夫なんだろうか。
安心材料が何もないから、考えだすとただただ不安になるばかりで、胸が押しつぶされそうになる。
お嬢さまは、誰よりも幸せになるべき人なのに。
けっきょく僕は一睡もできないまま朝を迎えてしまった。
「あなた、普段はどこで何をしているの?」
クレハールを通るという商人を見つけ、馬車に同乗させてもらえることになったユリシアは、別れ際に僕にそう尋ねた。
商人と交渉をしたのは僕というよりも、ユリシア自身だった。
「僕は普段はブリアール城にいるよ。そこで庭師をしているから」
「そうなのね。私は商人の見習いをしているの。今はまだあちこち行くことが多いから、決まった場所にはいないんだけど、またいつか会いましょ。そのときには恩返しをさせてね」
僕の手を取って、ユリシアが笑顔を浮かべる。
「クレハールまで気をつけてね」
僕も笑顔で返したけど、内心では少し唸っていた。
やっぱりミルテとは違うんだなと思わざるを得なくて。
ミルテに手を握られたときは触れられている感覚すらなかったのに、ユリシアには明確に握られている感触があって、僕は失礼にならない程度にそっと手を離した。
いったい何が違うと言うんだろう。僕自身にもさっぱり分からない。
馬車が走り出しても、ユリシアは僕に向けて溌溂とした笑顔で大きく手を振ってくれていた。
馬車が見えなくなるまで見送ったあとで、僕はふと空を見上げた。
なんだか急に僕のまわりの風通しが良くなった気がする。
──ああ、寂しいってこういうことなんだ。
僕は初めて理解した気がした。
寂しくない人間もいると言った僕の言葉に、ミルテが泣いたことの意味を。
自分が今までどれほど孤独な人間であったのかを。
でも、ミルテ。
それでも僕は、ずっと独りがよかったよ。
こんな気持ちは知りたくなかったよ。
きみがいなくて寂しいなんて、思いたくなかった──。
ここまでお読みくださってありがとうございます。
今回で番外編②は終了となり、次回からはシュリア視点の本編に戻ります。