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月桂樹7

 そういえばと、僕は都に着いたばかりの日のことを思い出した。

 あれもちょうどこの店で食事をしていたときのことだ。

 急にミルテがグラスを落として具合が悪そうにしだしたとき、僕はどうしたのか尋ねた。そうしたら、ミルテが平気だとか大丈夫だとか答えて。

 僕はなぜか、らしくもなく無性に苛立ったんだ。

 明らかに具合が悪そうなのに、どうして本当のことを言ってくれないのかと。

 そうして半ば無理矢理ミルテの顔を上げさせた僕は、心底驚いたんだ。

 泣いていたミルテが、以前に雨の中で泣いていたお嬢さまにそっくりで。


 あのときは、ただ女性が泣いていたからそう見えただけだと思っていた。

 でも、そうではなかった……?


 そもそもあのとき、隣のお客はブリアール侯爵令嬢とエスカラーチェ子爵との婚約の話をしていた。それを聞いたミルテがグラスを落としたのだ。


 ひとつピースが嵌まると、そういえばあのときもだと、次々に思い出してくる。

 ミルテが父と会って帰ってきて、僕がミルテを泣かせてしまったときだ。

 僕がミルテの頬に触れると、ミルテが僕の手を握ってきたことがあった。 手を握られることが嫌いな僕なのに、なぜかミルテには握られても平気だった。

 だから、そんなわけないと分かっていても、不思議に思って訊いたんだ。以前僕に会ったことがあるかと。

 以前、たった一人だけ平気だった人がいたから。

 アモル伯爵夫人のお屋敷からバーン城に帰る途中、舟の上で僕の手を握っていた──シュリアお嬢さまだ。


 もう確信に近かった。

 外見が全然違うし、何がどうなっているのかは分からないけど、ミルテはシュリアお嬢さまだ。

 翡翠のことを知っている事実だけでも、その答えは疑いようがなかった。

 そして、僕に名乗った銀梅花ミルテという名前。

 偶然のはずがない。


 シュリアお嬢さまなのだとしたら、ミルテの所作がきちんと行儀作法を学んだ人間のものであることにも納得がいく。


 改めてミルテのほうを見やると、ミルテはものすごい怒りの形相で、胸ぐらをつかんでいる男の顔に葡萄酒をぶちまけていた。

 ……ああ、型破りなレールティ家のお嬢さまならやりかねないな。

 思わず苦笑いが浮かぶ。

 

 いや、笑っている場合ではない。

 これ以上はやめさせないと。怪我をしてからでは遅い。


 僕がふたたびミルテに手を伸ばそうとしたそのとき、突き飛ばすようにして男から手を離したミルテの体がいきなりくずおれた。


「ミルテ!?」


 あまりにも唐突なことで、僕はとっさに反応が遅れてしまった。

 けど、床に倒れ込もうとするミルテを寸でのところでなんとか抱きとめた。

 ほっとしたのも束の間。

 僕の腕の中で、ミルテは完全に意識を失くして脱力していた。

 顔色は悪くないし、呼吸も脈拍も正常だけど、いきなりどうしたというんだろう。

 今の今まであんなに元気に動きまわっていたのに。


 傭兵の男は駆けつけた警吏けいりに連れていかれていた。

 喧嘩はよくあることだけど、剣を抜いたとあっては当然のことだった。さすがに地方でもそこまで無法地帯ではないし、都となればもっと厳しいだろう。

 ミルテはまったく目を覚ます様子がなかったけど、具合が悪そうなわけでもなく、ただ眠っているだけのように見えた。

 僕は仕方なくミルテをおぶって宿まで戻ることにした。


 ミルテをベッドに寝かせて、僕はその寝顔を眺めながら目が覚めるのを待った。

 ミルテがシュリアお嬢さまだというのは僕の確信だったけれど、もし本当にそうなのだとしたら、シュリアお嬢さまというのは想像を絶するほど根性があって我慢強い方だ。

 都までかなりの距離を歩いて来たのに、たったの一度も弱音を吐かなかったし、愚痴も言わなかった。

 食べるものもお城で過ごしていたときとは全然違っただろうに、不満そうな様子ひとつ見せなかった。

 挙げ句の果てに、自分が床で寝るとか言い出したこともあったなと思い出す。

 ふつうのご令嬢だったら絶対に有り得ない。

 規格外も規格外だ。


 考えてみれば、ミルテのまっすぐで優しい眼差しは、たしかにお嬢さまと同じだった。

 父とのことを必要以上に気にしていたのも、事情を知っているお嬢さまだからだったんだろう。


「どうして言ってくださらなかったんですか」


 知っていたら、こんな無茶な旅なんてしなかったのに。

 僕の個人的な思いはともかく、商隊の馬車に同乗させてもらうなりして、もっと早く都に来たのに。

 知っていたら、絶対にあんなに長距離を歩かせたりしなかった。


「ほんとうにお嬢さまの大丈夫という言葉ほど信じられないものはありませんね」


 そのとき、ミルテがわずかに身じろぎをした。

 ゆっくりとミルテが瞼を上げる。

 何度か瞬きをしたあと、首を巡らせて周囲の状況を確認している様子だった。

 そうして、僕を見つけて首を傾げた。


「……あなた、たしか私がさっき道を尋ねた人よね?」


 体を起こしながら、彼女は不思議そうな顔をした。

 その眼差しも表情も、明らかに僕の知っているミルテのものではなかった。

 僕は曖昧に笑って、試しに尋ねてみた。


「きみの名前、訊いてもいいかな」


「私? ユリシアよ。ユリシア・トラント」


 ああ、やっぱり。

 ミルテはシュリアお嬢さまだったんだ。



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