月桂樹6
僕は勉強熱心な王妃さまに乞われ、毎日のように王宮に出向くことになってしまった。
もうあの人に会いたくないし、その面影にも触れたくないから億劫で仕方なかったけど、僕の立場では王妃さまの要請を断るわけにはいかなかった。それに、グラースタ伯爵からも返信の手紙が届いて、王妃さまの要望に応えるように書かれてあった。
王妃さまと話をしていて、なんとなくグラースタ伯爵が何を考えいらっしゃるのか分かった気がした。
グラースタ伯爵領は海に面していて、この国の中でも屈指の良好な港を有している。薬草の使用を専門とした医療院を作るとなったら、必ず他国の薬草も必要になる。だからこそ、他に先んじてそのルートを確保しておけば、莫大な利益が得られることだろう。
グラースタ伯爵領は他の領地に比べて税が軽くて豊かだけど、それはグラースタ伯爵が他で収益を上げられるようになさっているからだ。
ただ良い話が転がり込んでくるのを待っているのではなく、些細な情報から自らそれと分からないように仕掛けていくグラースタ伯爵はやっぱり策士と言える。
少し変わったところはあるけど、とても賢い方なのだ。このあたりもきっとブリアール侯爵の血を引かれているのだろう。
そんなグラースタ伯爵のお役に立てるならと、僕も微力ながらできるかぎりのことはやってみようと思っていた。
王妃さまに予定があるため、久しぶりに早く宿に戻れた僕はミルテを誘って食事に行くことにした。
仕方ないとはいえ、いつも一人にしてしまっているのが心配だったし、申し訳なかった。
でも、僕の心配をよそに、ミルテは今日も明るく笑っている。
精神的にとても強くて元気な子だ。
そんなミルテを見ていると僕まで自然と笑顔になれるから、僕はミルテといっしょにいるのが好きだった。
「ミルテはまだ何も思い出さない?」
「え?」
美味しそうにパンを食べていたミルテは顔を上げ、一瞬何を言われたのか分からないといった様子で目を瞬いていた。
「記憶。まだ何も戻らない?」
「……あ、ああ。記憶ね。ええ、まだ何も……」
「困ったね。それじゃあ、クレハールに行ったあと、どうしたらいいのか分からないよね。僕がここにいる間に、早く記憶が戻るといいんだけど」
僕が見ているかぎり、ミルテはかなりしっかり躾けられている子だと思えた。
パンひとつ食べるのもそうだ。食事の所作の一つ一つがかなり洗練されている。一般的な庶民ではありえない。
そのとき、ミルテの背後……僕の視線の先でガシャガシャン! と、テーブルや椅子、食器が派手にひっくり返った。どうも傭兵らしき男が二人、誰かに難癖をつけているようだった。
「ねえ、ラウラス。前から訊きたかったんだけど、こういうの普通なの? 私、記憶がないから分からないのよね」
騒ぎのほうを指差すミルテの顔はものすごく冷たかったけど、そんな表情すら可愛く思えて笑ってしまいそうになるから不思議だ。
「いや、普通とまでは言わないけど……。僕が知っているかぎりでは、そこまで珍しいことでもないかな。都がどうなのかは知らないけど」
ミルテは溜息をついた。
こういうのは本当に慣れていないんだろう。心底うんざりしているといった様子だ。可愛いけど。
そうこうしているうちに喧噪の中に小さな子供の泣き声が交じりだしたので、そちらに目を向けると、子供の腕から血が出ているのが見えた。割れた食器か何かで切ってしまったのだろう。
「大丈夫だよ。見せてごらん」
七歳前後くらいと思われる少年は、僕が声をかけると驚いたような顔をしたけど、そばにいた両親にも声をかけて傷を見せてもらった。
血はたくさん出ているように見えるけど、傷自体は浅い。
「びっくりしたね。でも、血もすぐ止まるから心配ないよ」
傷の処置をしていると、今度はミルテの怒鳴り声が聞こえて、僕は慌てて振り返った。
傭兵の足元めがけて椅子を投げつけているミルテが目に入る。
僕は驚愕した。
……嘘だろ。
なんで剣を振り上げている人間に向かっていくんだ。
いくら他人のために全力で頑張れるとしても、限度がある。むちゃくちゃだ。
「仮にも剣に命を預ける人間が、ご老人に向かって簡単に剣なんて抜くんじゃないわよ!」
睨みつける傭兵に対して怯むどころか、威勢よく啖呵まで切っている。
さすがに怖いもの知らずにも程があるだろう、ミルテ……。
……でも、なんだろう。この既視感は。
なぜかこういう光景を以前にも見たことがあるような気がする。
華奢な少女が一人で体格のいい男たちを相手に大立ち回りを演じていた光景を、以前にもどこかで──。
「ミルテ!? なにしてるの!?」
とにかく止めさせようと、とっさにミルテに駆け寄る。
ミルテに手を伸ばそうとした瞬間、床に倒れていた傭兵が薙ぎ払った剣の一撃が僕の目の前をかすめた。
カツンと小さな音がして、僕が首から下げていた翡翠が床に落ちた。
「あんた!! なんてことするの!」
起き上がって態勢を整えようとしていた男に、ミルテが顔色を変えて飛びかかり、胸ぐらをつかんだ。
ああ、もうどうしたらいいんだ。僕は頭を抱えそうになった。
完全にミルテの顔が怒り狂った闘神のようになっている。
そんなに怒らなくても僕は大丈夫だからと言っても、まったくミルテの耳には入っていないようだった。
「あれはラウラスの大切なお母さまの形見なのよ!!」
……え?
僕は一瞬固まってしまった。
僕はミルテにこの翡翠が母の形見であることを話しただろうか?
いや、話していないはずだ。
父も、僕がこの翡翠を持っていることは知らない。
だから、ミルテが父に会ったとしても、この翡翠のことを聞いているはずがない。
そもそもこの翡翠の首飾りが母の形見だなんて、誰にも話したおぼえがないのだ。たった一人を除いて。
なのに、どうしてミルテが知っているのだろう。
いや、そもそもミルテは……。
ミルテという名前の意味は──。
──銀梅花
愛らしいのに、凛としていて、痛みを緩和する薬にもなる、僕がブリアール城に庭師として訪れたときからずっと眺めつづけていた樹木の名前。
まさか、そんなことがあるだろうか。
だけど、ミルテの口癖は平気とか大丈夫という言葉で。
我慢強くて、剣を持つことも厭わず、どんな相手にでも向かっていく勇敢な子で。
他人のために、ときどきとんでもない無茶をすることがあって。
祝いの木と言われるままに、暗闇の中に落ちていきそうな僕を引き留めて笑顔をくれる。
それはたった一人、僕がこの翡翠が母の形見であることを話した人。
僕が、銀梅花に譬えた人──。
「……お嬢さま?」
僕は信じられない思いで呆然と呟いた。