月桂樹5
最初に予定していたよりも大幅に遅い時間になってしまったので、少し急ぎ足で宿に向かう。
ミルテは一人で大丈夫だろうか。
旅の途中で出会ったミルテは、僕が都に着いても、自分の目的地であるはずのクレハールに向かおうとせず、まだ僕といっしょにいる。
記憶がないと言うし、きっと僕と別れてクレハールに行ったところで何をどうすればいいのか分からないんだろう。
今はいいけれど、ずっといっしょにいるわけにもいかないし、どうしたものかな……。
そんなことを考えながら歩いていると、まさに視線の先にミルテがいた。
「……あれ? ミルテ?」
声をかけると、ミルテが振り返った。
「ラウラス! 帰ってきたのね!」
すぐに明るい声が返ってくる。
一人で街に出ていたことが心配にはなったけど、相変わらず元気そうだ。よかった。
「ミルテはこんなところで何してるの?」
「ちょっといろいろあってね、おじさんを待ってるの」
「おじさん?」
ミルテが水路に落ちたという話をするから、驚いていたら、もっと驚くことが僕の身に降りかかった。
まさかこんなところで会うとは思っていなくて、僕は完全に凍りついてしまった。
王宮で姿を見かけなくてホッとしていたのに。
「やあ、お嬢さんお待たせ」
人好きのする笑顔で店から出てきたその人は、僕を見るなり、すっと笑顔を消した。
無表情で、目だけが異様に冷たい。
ああ、やっぱりこの人は少しも変わっていない。彼の造る庭園そのままなんだな。
「……どうして、あなたがここにいるんですか。──父さん」
最初から答えなんて返ってこないことは分かっていた。だから、これはただの僕の独り言だ。
案の定、彼は僕の問いには答えず、ミルテとどこかに行こうとする。
おろおろしているミルテが可哀想だった。
「どこかに行く約束をしてたの? だったら、僕のことは気にしなくていいから行っておいでよ」
優しく言ってあげたいのに、乾いた声しか出ない。
変わっていないのは、僕もいっしょということか。
この人といると、感情が凍りついてしまう。そんな自分が嫌で、僕は逃げるように踵を返した。
宿に戻った僕は、王妃さまやブリアール侯爵にお会いしたことのすべてが頭から抜け落ちてしまうほど心が叩きのめされていた。何の気力も湧いてこなくて、ただベッドに横たわる。
あの人の、ああいう態度は昔からのことだ。もう子供ではないのだから、何の期待もしていない。
今さら傷つくこともないし、何の感慨も湧かない。
そもそも僕の存在があの人にとっては悪なのだから、あの態度も仕方のないことだ。
僕を叩きのめしたのは、あの人の態度などではなく、僕自身の感情だ。
あの人を前にして、感情が消えていく自分がいた。
同時に、冷たい自分が何より嫌だと思ってしまう自分がいた。
冷たい水の中に母を置き去りにしてしまった僕だから、僕自身も心だけは冷たい水の中に置いておこうと決めた自分がいるのに。
空っぽである自分を受け入れていたはずなのに。
穏やかな自分でありたい。優しい自分でありたい。
そんなふうに思ってしまっている自分の矛盾を突きつけられる。
だけど、すでに心の一部は凍りついてしまっていて、まともに機能しない。
こんな僕じゃ、今さら本当の意味で穏やかになんてなれない。本当の意味で優しい人になんてなれない。だって、そんなのはただの嘘つきでしかないじゃないか。
それに、優しい人でありたい?
母をあんなふうにして、命を奪ってしまったこの僕がどの口で言うんだ?
ああ。ひどく頭が痛い。
喉の奥がじくじくと痛む。
空っぽな僕。でも、本当は空っぽなんかじゃなくて。
心の奥の、そのまた奥底で、いつも何かが呻いている。
でも僕は、その声を拾い上げることができない。何を訴えているのか、僕にはわからないんだ。
ただただ心が窒息しそうだった。
あの人にさえ会わなければ、自分が抱える矛盾にも気づかないふりをしていられたのに。
空っぽの笑顔ですべてに蓋をしていられたのに。
そのままどのくらいの時間が経っただろう。
けっきょく僕は心の中が空っぽになるのを待つしかなかった。
そうして初めて起き上がることができた。
そんな自分にまた嫌気がさす。
王妃さまと謁見したことをグラースタ伯爵に報告しなければ。
そう思って、どこかぼんやりした頭のまま手紙を書いていると、ミルテが帰ってきた。
「おかえり」
なんとか笑顔を浮かべられた自分に安堵する。
嘘でもいいから、今は普通を演じていたい。
「ミルテ? どうかしたの?」
なぜかミルテがまっすぐに僕のほうへ歩いてくる。
そうして、僕の目の前で立ち止まったミルテは、いきなり力いっぱい抱きついてきた。
「ごめんなさい」
「……いきなりどうしたの。なにを謝ってるの?」
ミルテは首を横に振るだけで、何も答えなかった。
いったいどうしたんだろう。またお酒にでも酔ったのだろうか。
それとも、あの人に何か言われたのだろうか。僕以外の人には親切な人のはずだけど。
……そう。あの人はもともとはいい人なのだ。
あの人をあんなふうにさせてしまったのは、この僕だ。
ミルテはどうやらあの人から僕の子供の頃の話を聞いてきたようだった。
「寂しくなかった?」
そう尋ねてくるミルテに、僕は努めて穏やかに答えた。
「ミルテは、きっと恵まれた幸せな人生を送ってきたんだろうね。だから、一人が寂しいと思うんだろう? 世の中は、そんな人間ばかりじゃないんだよ」
できるだけ冷たく聞こえないように優しく言ったつもりだけど、どうやらミルテを泣かせてしまったようだった。
僕に抱きついたままなので顔は見えなかったけど、ちいさく上下する肩で嗚咽しているのが分かった。
僕はこうやって人を傷つけていくんだろう。
ほんとうにこんな自分が嫌だ。心の底から。
抱きついたままのミルテをそっと僕から離すと、ミルテはその目いっぱいに涙を溜めていた。
頬に手を添え、こぼれる涙を拭っても、またミルテの目には涙があふれてくる。
僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
優しいミルテを泣かせてしまうなんて、僕は何をやっているんだろう。
そのとき、ミルテの頬に添えていた僕の手を、ふいにミルテが握ってきた。
一瞬、びくっとなる。
だけど、予想に反して寒気は襲ってこなかった。
僕自身が手を差し伸べたときは別だけど、僕は、一方的に誰かに手を握られるのが好きじゃない。
いや、もっとはっきり言えば嫌いだった。冷たい水の中で僕を掴んでいた母の手を思い出してしまうから。
でも、なぜだろう。たしかに今ミルテは僕の手を握っているのに、何ともない。
むしろ触れられているのが分からないくらいだ。
ミルテの手が離れてからも、どうにもその感覚が不思議で、僕は思わず自分の手を眺めてしまった。
「ラウラス? 何か気になることでも?」
「…いや……うん。あのさ、ミルテは……以前どこかで僕に会ったことある?」
過去にたった一人だけいたんだ。手を握られても平気だった人が。
でも、そんなはずはないから、ミルテに訊いても意味はないんだけど。
それからミルテは持ち帰った服を干して、僕は手紙の続きを書いた。
そうして手紙を書き終えて振り返ると、ミルテはカバンを抱えたまま床の上で眠ってしまっていた。
「ミルテ? こんなところで寝たらダメだよ」
声をかけても、まったく起きる気配がなかった。
「困ったな……」
僕の力じゃ、とてもミルテを抱えてベッドまで運べない。
でも、水路に落ちたとか言っていたし、こんな冷えるところで寝て風邪をひいたらいけないし……。
とりあえず外套を眠っているミルテにかけてみたものの、床に直接座っているから絶対に冷える。
考えに考えた挙句、ミルテの体を横にして寝かせるくらいなら僕の力でもできるから、床に僕の外套を敷いて、そのままミルテを横に寝かせた。
「ちゃんとミルテより早く起きるからね」
早起きは得意だからと付け加えて、暖房代わりに僕がミルテの隣で休むことにする。
すやすやと眠っているミルテを見ていると、なぜか自然と笑みが浮かんだ。
帽子を拾おうとして水路に落ちたようなことを言っていたけど、他人のために全力で頑張れる彼女は、人としてとても愛おしい存在に思える。
そんなミルテを眺めていると、渇いていた心が少しだけ癒える気がした。
ふと、ミルテの手が僕の背中にまわる。
横にするときに抱えていたカバンをとったから、きっと僕をカバンと間違えているんだろう。
そう思うとなんだか可笑しくて笑ってしまいそうになったけど、ミルテを起こしてはいけないので必死に我慢した。
──ああ、僕、まだちゃんと笑えるんだ。
そのことに気づいて、今度は涙がこぼれそうになった。
心の中が、なんだかあたたかい。
それだけでもう、僕は救われた気がした。
そういえば、すっかり忘れていたけど、ミルテと一緒にいるようになってから、いつの間にかちゃんと眠れるようになったな。
以前はあんなに夜眠れなくて困っていたのに。
よく分からないけど、ミルテは不思議な力を持っている子だ。
「一緒にいてくれてありがとう」
小さくそう呟くと、僕は穏やかな気持ちで目を閉じた。