静かな嵐8
「ミルテ、外に食事でも行かないかい?」
いつもは日が暮れてから帰って来るけど、久しぶりにまだ日がある間に王宮から帰ってきたラウラスは、そう言って私に声をかけてくれた。
せっかくなので、都に着いた日に宿の主人に教えてもらった店にもう一度行ってみることにした。けっきょくあの日は何も口にできなかったから。
「ミルテは僕がいない間、いつも何をしているの?」
今日はカウンター席ではなく、テーブル席に座った。
なんとなく、また隣から噂話なんかが耳に入ってくるのが嫌だったから。
「え? えーと、都見物……かな?」
さすがにおじさまのお屋敷に行っているとは言いにくいので、適当なことを答える。ごめんなさいね、ラウラス。
「あんまり一人でうろうろしたら危ないよ?」
「それは気をつけてるから大丈夫」
そもそもバリバリの軍人とか剣の達人とかじゃないかぎり、私はそのへんのゴロツキ程度には負けたりしない自信があるし。剣術だけなら、お兄さまのところにいる護衛の騎士さまとも互角に闘えるくらいなのよ。令嬢として何の自慢にもならないけど。
「ラウラスは王宮でずっと王妃さまのお相手をしているの?」
「うん。ずいぶん勉強熱心な方でね。どうやら薬草を使った治療を専門にする施設を作りたいとお考えのようなんだ」
「それでラウラスの書いた本に興味を示されたのね」
ラウラスは頷いた。
なんだか久しぶりにラウラスの目を見る気がする。最近は帰ってきても、いつも何か書き物をして机に向かっているし、食事のときも何か考えごとをしている様子だったから。
明るい緑の瞳は、今日は私を見てくれている。それが嬉しい。
「アモル伯爵夫人が薬草に詳しい方でね、国務卿であるアモル伯爵にあれこれと薬草を送っておられることをお聞きになって、前々から考えておられたらしい」
「それじゃあ、王妃さまはラウラスを王宮に引き留めたいんじゃない?」
「たしかにお誘いいただいたけど、お断りしたよ。僕はブリアールで庭師をしていたいから」
やっぱり誘われたんだ。
そして、断ったんだ……。
まあ、王宮はおじさまが出入りしているし、ラウラスとしては当然の選択なのかな。
王妃さまのもとで働くなんて、名誉なことだろうに。
身勝手なことを言っているのは分かっているけど、ラウラスが王宮よりブリアールを選んでくれて嬉しい。
「王宮でおじさまのことを言われたりしない?」
「言われるね」と、ラウラスは苦笑した。
「嫌な思いしてない?」
「べつにそこまで突っ込んで訊いてくる人はいないから平気だよ。言われたのも王妃さまとブリアール侯爵だけだし」
「おと……じゃなくて、ブリアール侯爵にお会いしたの?」
このお店もパンが美味しかった。
焼き立てで、ふわふわだ。宿の主人がオススメだと言っていた焼きリンゴというものは初めて食べたけど、これも甘くてほんのりバターがきいていて美味しい。
「うん。初日に王宮で声をかけていただいてね。すごく穏やかでおおらかな方だったから驚いたよ」
……それは、お兄さまのせいかしら?
パンを口に運びながら、私は少しだけ遠い目になる。
だから、お兄さまのあれは突然変異なんだってば。お父さまも私もいたって普通なのよ。
そして、さっきから背後がなんだか騒がしい気がしているけど、無視だ。
「ところで、ミルテはまだ何も思い出さない?」
「え?」
唐突に何のことを言われているのか分からなくて、思わず呆けた顔をさらしてしまった。
「記憶。まだ何も戻らない?」
「……あ、ああ。記憶ね。ええ、まだ何も……」
そうだ。すっかり忘れてた。私は記憶喪失という設定だったんだわ。
「困ったね。それじゃあ、クレハールに行ったあと、どうしたらいいのか分からないよね。僕がここにいる間に、早く記憶が戻るといいんだけど」
もしかしたらラウラスは、私が都でうだうだしているのは、記憶喪失のせいだと思っているのかもしれない。それであまりしつこくクレハールに行くことを促してこないのかも。
ああ、それにしても後ろがうるさいな。
都でも無駄に騒がしいのはいるのね。
ちらっと視線を後ろに向けると、傭兵らしき男が二人、誰かに何やら因縁をつけているようだった。
平和な世の中であっても傭兵の需要がないわけではないけど、やっぱり戦があるときほどではないし、鬱屈としたものが溜まっているんだろう。
とにかく無視だ。
酔っ払いではなさそうだけど、もうカオスなのにはうんざり。
食事くらい静かにさせてほしい。
「ラウラスは、あとどのくらい都にいるの?」
「うーん。僕としてはもう帰りたいくらいなんだけど……。王妃さま次第かなぁ。同僚たちがちゃんと面倒を見てくれているとは思うけど、ブリアールに残してきてる薔薇が心配なんだよね」
そのとき、ついにガシャガシャン! と、テーブルや椅子、食器が派手にひっくり返る音がした。
「ねえ、ラウラス。前から訊きたかったんだけど、こういうの普通なの? 私、記憶がないから分からないのよね」
目を細め、冷めた顔をして、気だるげに騒ぎのほうを指差す。
「いや、普通とまでは言わないけど……。僕が知っているかぎりでは、そこまで珍しいことでもないかな。都がどうなのかは知らないけど」
たしかにラウラスは平然とした顔をしているし、まったく動じていないものね。
私は小さく溜息をついた。
賑やかなのはいいけど、殴り合いの喧嘩はやめてもらいたいものだわ。
そうこうしているうちに、喧噪の中に小さな子供の泣き声が交じりだした。
思わずそちらに顔を向けると、割れた食器か何かで怪我をしたのか、子供の腕から血が出ているのが見えた。
すぐさまラウラスが席を立ち、子供のもとに歩み寄る。
ラウラスが子供に何か話しかけ、傷を診ている間、私は林檎酒を飲みながらおとなしく待っていた。......待っていようとしたんだけど。
「なにやってんのよ!!」
ご老人に向かって剣が振り上げられているのが目に入って、とっさに私は駆け出していた。剣を握っている傭兵の足元めがけて、そばにあった椅子をぶん投げる。
椅子が命中して、今まさに剣を振り下ろそうとしていた傭兵は見事にすっ転んだ。
またもやド派手にテーブルや食器がひっくり返る。
……けっきょく、やっぱりカオスだ。
「何しやがる!」
傭兵が睨みつけてきたけど、おもいっきり睨み返してやる。
「それはこっちのセリフよ。仮にも剣に命を預ける人間が、ご老人に向かって簡単に剣なんて抜くんじゃないわよ!」
ほんとにどいつもこいつも。どうなってるのよ。
私は落ち着いて楽しくラウラスと食事がしたいのに。
「ミルテ!? なにしてるの!?」
驚いた顔のラウラスが、慌てた様子で私のほうに駆け寄ってくるのが見えた。
ラウラスが私に手を伸ばそうとした瞬間、床に転がっていた傭兵が無理な体勢で強引に下から薙ぎ払った剣がラウラスの目の前をかすめる。
カツンと、小さな音がした。
その瞬間、一気に私の頭に血が上った。
「あんた!! なんてことするの!」
起き上がって態勢を整えようとしていた男に飛びかかり胸ぐらをつかむ。
「あれはラウラスの大切なお母さまの形見なのよ!!」
こんなところで剣なんて振りまわすんじゃないわよ!!
いっぺん死ね!! と、喉元まで出かかったけど、必死にこらえて、片手で胸ぐらをつかんだまま、反対の手で近くにあった葡萄酒を男の顔に勢いよく浴びせかけた。
ああ、頭に血が上りすぎてクラクラするわ。
ラウラスの大事な首飾りなのに…、ちゃんと元に戻るかしら。
そのまえに、翡翠を拾わなくちゃ。お母さまの好きだった石──。
手を伸ばそうとして、目の前が真っ暗になる。
私を呼ぶラウラスの声が、なぜか遠くに聞こえた。
◇ ◇ ◇
「おかえり、デュ・レールティ嬢。……いや、エスカラーチェ子爵夫人」
瞼を上げたら、目の前にいたのはラウラスではなく、穏やかな笑顔を浮かべたエスカラーチェ子爵だった。
「え……? ここは……?」
まったく見覚えのない部屋だ。
宿の部屋ではない。
高い天井一面に薄紫色の花の絵が描かれている部屋なんて、ブリアール城にもなかったはずだ。
「ここはあなたの部屋ですよ、シカトリス城のね」
子爵は何でもないことのように、さらりと答える。
私は長い夢でも見ていたんだろうか。
……いや、今のこの状態もまだ夢を見ているようにしか思えない。
シカトリス城? 私の部屋?
何が何だかさっぱり分からない。
──目が覚めた私の名前は、すでにシュリア・レールティ・デュ・メリディエルに変わってしまっていた。
ここまでお読みくださってありがとうございます。
次回からはしばらくラウラス視点の番外編②になります。
その番外編②の終了後に、再びシュリア視点の本編に戻る予定です。
お付き合いいただければ嬉しいです。