静かな嵐6
宿に戻ると、ラウラスは燭台の灯りで何か書き物をしていた。
「おかえり」
振り返ったラウラスはいつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべていた。
今までは何とも思っていなかったその笑顔が、おじさまの話を聞いたあとの今は、ただ悲しいものに見えてしまう。
ラウラスのその笑顔は、本当は空っぽの心を覆い隠すための、ただの仮面だったんじゃないかと思えて。
「ミルテ? どうかしたの?」
不思議そうに小首を傾げるラウラスに吸い寄せられるように、私の足はまっすぐにラウラスのほうに向かった。
そうして、気がついたらラウラスを抱きしめていた。力いっぱい。
「ごめんなさい」
「……いきなりどうしたの。なにを謝ってるの?」
私は首を横に振るだけで、何も答えられなかった。いろんな気持ちが一度に溢れてきて、言葉なんて見つからなかった。
わざとではないけれど、私はラウラスを独りにしてしまった。
いまだに父親が自分にだけ冷たいということを再確認させてしまったうえに、私だけ父親のほうに付いていってしまって……、ずっと独りだったラウラスを、また独りにしてしまった。
いったいどんな気持ちで、ここにいたんだろう。
「ミルテ? ほんとにどうしたの。何かあったのかい? ちゃんと言ってくれないと分からないよ」
労るように、ラウラスが私の背中に手をまわしてそっと撫でてくれる。
こんなにも優しい人なのに。
どうしてあんなにもひどい扱いを受けて、過酷な幼少期を過ごさないといけなかったんだろう。
「……八歳のときに、家を出たんですってね」
ラウラスを抱きしめたまま囁くように言うと、私の背中を撫でていたラウラスの手がぴたりと止まった。
「ああ…、あの人か」
余計なことを喋る人だねと、ラウラスが冷たい声で独りごとのように呟く。
その声音から、やっぱり触れられたくない話なんだと容易に理解できた。
「違うのよ。私から訊いただけなの」
「なぜ?」
なぜって……。おじさまがブリアール侯爵邸で仕事をしているときに、ラウラスがどこにいたのか気になったからだけど、そんなことは言えない。
私は口を噤むしかなかった。
「……たしかに僕は小さいときに家を出たけど、べつに同情とかしてくれなくていいし、哀れむ必要もないよ。おかげで植物の知識が増えたからね。食べられる植物も、毒のある植物も、いろいろね。あちこち見てまわることもできたし」
なるほど。それでラウラスは年齢のわりに植物への造詣が深いのね。
でも、そういうことではなくて。
「寂しくなかった?」
「べつに、なんとも」
「ほんとうに?」
「ミルテは、きっと恵まれた幸せな人生を送ってきたんだろうね。だから、一人が寂しいと思うんだろう? 世の中は、そんな人間ばかりじゃないんだよ」
そんなことを言う声すら優しい。
でも、ラウラス。それはつまり、一人が寂しいと思うこともないほど、最初からずっと独りだったということよね? それが当たり前という……。
なんて寂しいことを言うの。
だけど、きっとラウラスはそれすら、かるく笑って流してしまうんだろう。
いったいどうやったら、この人の仮面を剥がすことができるんだろう。
いったいどうやったら、この人の心に触れられるんだろう。
ラウラスはここにいて、力いっぱい抱きしめているはずなのに、私の心に穴が空いていてしまっているかのようだ。腕の中に何もないような錯覚をおぼえてしまう。
作りものの笑顔じゃなくて、空虚な笑顔じゃなくて。
私はラウラスに心からの笑顔を浮かべてほしいのに。
シュリアじゃなくなっても、お嬢さまじゃなくなっても、私はラウラスとの壁を崩せないんだ……。
「ミルテ? 泣いてるの? ごめんね。きついこと言ってしまったかな」
そうじゃないわ。
あなたが遠いのよ。全然手が届かないの。
「僕は……あまり人付き合いが得意じゃないんだ。どうにも加減がわからない。言葉も距離も。だから……知らず知らずのうちに傷つけてたらごめん」
「大丈夫。傷ついてなんかいないわ」
「じゃあ、どうして泣いているの」
ラウラスが私の体を離し、その手をそっと私の頬に添える。
「……私が私であることが悲しいと思っただけよ」
「ずいぶん難しい話だね」
ラウラスが私の涙を拭ってくれたそばから、新しい涙がこぼれてくる。
泣きたくなんてないのに。
「僕は、ミルテがミルテでよかったと思ってるよ」
ぽつりと、ラウラスがこぼす。
「都に行くのはただ気が重いだけだったけど、ミルテのおかげで、ここまでの道中を楽しく過ごせたんだ。感謝してるよ。ありがとう」
ああ、ちがう。違うのよ。
ラウラスの役に立てたのは嬉しいけど、私は今、そんな言葉が聞きたいんじゃない。
どうしたら私はあなたの本当の声を聴けるの。