静かな嵐5
あれ? でも、ちょっと待って。
唐突に私の中で何かが引っかかった。
以前アモル伯爵夫人に、「王宮で会ったことはありませんね」と問われたラウラスは何と答えていた?
たしか、王宮にも都にも行ったことがないと答えていた気がするんだけど。
私がブリアール侯爵邸に住んでいたのは五歳とか六歳とかの頃よ。ラウラスは私より四つ上のはず。
だったら、おじさまがブリアール侯爵邸で仕事をしていたとき、ラウラスは九歳とか十歳とかよね。
そのときには母親ももう亡くなっていたはずだし、都に行ったことがないというなら、ラウラスはいったいどこにいたの?
「おじさまがブリアール侯爵邸で仕事をしていたとき、ラウラスはどうしていたんですか?」
「うん? さあ……。その頃はもういっしょにいなかったから、分からないな」
「どういうことですか?」
「あいつは八歳のときに家を出て行ったから」
私は思わず立ち上がっておじさまをぶん殴りそうになった。
もちろん必死にこぶしを握って、その衝動を抑えたけど。
八歳ですって?
そんな小さな子供が家を捨てて出て行ったことを、平然とした顔で言えてしまうなんて。
いったいどういう神経をしているの?
いくら血を分けた息子ではないと言っても、そこまでラウラスに対して無関心を貫けるなんて。
「おじさま。あなた、どうかしているわ。……いつか必ず、絶対にラウラスに謝ってくださいね」
殴るのはなんとか堪えたけど、その代わりにものすごく低い声で凄む。
謝ったくらいで赦されるものではないけれど。
八歳の子供が一人で生きていくなんて、並大抵なことではなかったはず。どんなに苦労したことだろう。
そんな小さな頃に家を捨てる決断をせざるを得なかった……そこまで追い詰められていたラウラスの胸の内を思うと、言葉もない。
「そ……それはそうと、ブリアール侯爵令嬢といえば、エスカラーチェ子爵と再婚約が成立したという話を聞いたが? お嬢さんがここにいるということは、巷で噂になっているブリアール侯爵令嬢はいったい誰なんだい」
私から滲み出る無言の圧に何かを感じたのか、おじさまはあからさまに話題を変えた。
私はいったん瞼を伏せ、ふーっと細く深く息をついて気持ちを鎮める。
「それが分からないから困っているんです。私じゃない誰かが勝手に子爵との結婚の話を進めてしまっているんですよ」
「お嬢さん自身は子爵との結婚を望んでいないと?」
「当たり前じゃないですか。あんな得体の知れない人と誰がすすんで結婚したいというんですか」
「うーむ……。しかし、今さら侯爵に相談しても、相手に余程の落ち度がないかぎり覆せないだろうしなぁ」
「相手に落ち度どころか、私、子爵に刺されてるんですけど……。もはや事件ですよ」
「だが、向こうのブリアール侯爵令嬢は元気でピンピンしているわけだろう? 事件になどなり得ないし、誰も信じないと思うがね。もうこうなったら、元の体に戻れた際にお嬢さんが子爵を刺し返すしかないんじゃないか」
「……おじさま? 真面目に考えてくださってます? 私はべつに仕返しをしたいわけじゃないんですよ?」
思わず白い目で見てしまう。
「分かってるよ。結婚が嫌なんだろう? だけど、ここまで来たらもう結婚を覆すことは難しいだろうから、離縁の方法を考えたほうが早いんじゃないかと思っただけだよ」
離縁、ねえ。
たしかにそのほうが結婚を阻止するよりも、可能性はある気はするわねぇ……。
ここまできて結婚を阻止したら、またおばあさまにラウラスのことを疑われてしまう可能性もあるし。ラウラスのことが諦められないからだろう、と。
それが真実であるかどうかなんて関係ない。おばあさまがそう思ってしまえば、それだけでおしまいだ。
ラウラスの過去を知ってしまった今は、前にもまして強く思う。
ラウラスがようやく見つけた居場所を奪うようなことがあってはならない。絶対に。
私が結婚さえすれば、ラウラスがブリアール城で庭師をつづけるための条件は、とりあえずクリアしたことになるわよね。
でも、離縁なんておばあさまが納得してくれるかしら。
私に原因がある離縁だと困るんだけど。
夫が原因での離縁っていうのは、この国では正直あまり考えられないのよね。子供がいないまま夫が他界するとか、そういうのじゃないと……。
受け取ったまま、いまだに手の中にあるブレスレットを見つめる。
《真実の雫》の継承者の結婚に真実の愛がなくて、結婚の継続を望まなかった場合、このブレスレットはもう一つの役割を担う。
そう。毒を使っての相手の抹殺。
それを実行する?
いや、でも。ミリッシュの件で、もうそういうのは懲りごりだ。
「結婚後にひどい扱いを受けたなら、それこそブリアール侯爵に訴えてみたらどうだい。侯爵はお嬢さんのことをずいぶん可愛がっていたろう。離縁するのに協力してくれるのではないか?」
「うーん……」
「それでもし相手が渋るようなら、そのときは私も国王陛下に口添えしてあげるから」
「う──ん……」
折れるんじゃないかというくらい首を傾け、腕組みをして唸る。
さすがに国王陛下のお手を煩わせるまでの案件ではないとは思うけど……。
離縁かぁ。
悪くはない、かなぁ?
私を不当に扱ったりした場合、お兄さまに言えば、いくらでも裏で手をまわしてくれそうな気はする。
なんだかんだ言っても、私はとても恵まれているなぁと思う。
いつでも自由に会えるというわけではないけど、お父さまにもお兄さまにも愛されて、大切にしてもらっているもの。とくに大胆不敵、不撓不屈の精神を持つお兄さまの存在はとても心強い。型破りな人だけに、その無茶ぶりに振りまわされることも多いけど……。
「そういえば、おじさまは八歳のときからラウラスに会っていないんですか?」
「そうだが」
またその話かとでも言いたげに、おじさまの眉宇がくもる。
私はかまわず言葉をつづけた。
「そんなに久しぶりに会ったのに、よくすぐにラウラスだと分かりましたね」
「ああ…。母親にそっくりだからな」
不愉快そうに言う。
この人はほんとにもう……。相当に心がねじくれているわね。ラウラスとの軋轢が解消するのには、想像以上に長い時間を要しそうだわ。
ラウラスがウィリディリスを名乗っているのはお母さまの意向だと聞いたけど、本当にそれだけが唯一かろうじてラウラスと父親を繋げているものなのね。
それすらなかったら、おそらく二人は完全に他人として生きていたに違いない。
ラウラス・ウィリディリスという名前には、きっとお母さまの想いが詰まっているんだろう。
おじさまは、そのことを分かっているんだろうか。
「お嬢さんはずいぶんあいつのことを気にかけているんだね」
「当たり前です。世界で一人くらいラウラスのことを気にかける人間がいたっていいでしょう」
つい睨みつけるようにして言ってしまう。
おじさまはバツが悪そうに咳払いした。
「い、いちおう私の連絡先を教えておくから。何か私の力が必要なら手紙をおくれ。...ああ、そういえば今更だが、お嬢さんの今の名前を聞いていなかったね」
「ミルテです」
「ミルテか。いい名前だね」
おじさまはにっこりと笑った。
……ほんと、ラウラスに関わること以外では、普通のいい人なんだけどな。
私の名前より、ラウラスの名前を気にしてあげてほしいわ、おじさま。
こっそりため息をつきながら、私はおじさまの告げる連絡先に耳を傾けた。