静かな嵐1
おじさんは私を近くの古着屋に連れて行って、服を買ってくれた。
庶民というのは古着をそのまま着たり、仕立て直して着るのがふつうで、新品の服を着ているのは新しい服を仕立てることができる財力のある貴族とか裕福な商人くらいなもの。だから、けっしておじさんがケチで古着を買ったわけではない。念のため。
「こんな素敵な服を買ってくださってありがとうございます」
「いやいや、私のせいでお嬢さんをびしょ濡れにさせてしまったんだからね。これくらいは当然だよ」
古着とはいっても、かなり良い生地のワンピースで、綺麗な黄緑色に染められていたし、なかなか値の張りそうな服だった。それを躊躇いなく買ってくれたおじさんは、けっこう裕福な人なんだろう。奥さんが裕福な商人の娘だったと言っていたから、このおじさんもそういう感じの人なのかもしれない。おじさん自身もかなり良い服を着ているもの。
おじさんはそれからお店の人に事情を話して、私が暖炉の前で体を温められるようにしてくれた。
「ほら、これも飲むといい。店の主人がお嬢さんにって」
おじさんはそう言って陶器のコップに入った温かいミルクを渡してくれた。
「ありがとうございます」
ミルクを受け取って一口飲むと、そのほんのりとした甘さとぬくもりが全身に染み渡るようだった。
その感覚に、なぜか涙がこぼれそうになる。
コップを包み込む手にぎゅっと力を入れて、なんとか涙はこらえたけど。
「体が温まったら、どこかで夕食を食べよう。ご馳走するよ」
「えっ? これ以上はいいです。もう十分によくしていただきましたので」
「それでは私の気が済まない。その服は、ただお嬢さんの服を濡らしてしまったから代わりのものを用意しただけのこと。帽子を拾ってくれたお礼はまだ何もしてないよ」
ニコニコしながらそんなことを言うおじさんは、よほど人がいいんだろう。ぽっちゃりとしていて艶々した肌が、なんだかおじさんを可愛らしく見せている。とくに頬はバターをたっぷり塗ったふわふわの焼き立てパンのようで可愛い。
……なんてことを考えていたら、お腹が空いてきてしまって、お腹が鳴った。
深窓の令嬢にあるまじきはしたなさ……。おばあさまがいたら、ぶっ飛ばされるところだ。
でも、おじさんはニコニコしたまま、うんうんと満足げに頷いている。
「どんなものが食べたい?」
「…………バターがたっぷり塗られたふわふわのパンが食べたいです」
おじさんは可笑しそうに笑った。
「そんなものでいいのかい?」
私は黙って頷いた。
バターの塗られたパンも、小麦で作られたふわふわのパンも、久しく食べていない。
ミルテとして過ごしている間は、ライ麦で作った硬いパンか、お粥ばかりを食べていたから。
領主にもよるけど、麦を挽くのにもパンを焼くのにもお金を払わないといけないから、庶民はパンすら食べずにお粥を食べることも多いのだと、ラウラスと旅をしていて知った。
もちろん私も侯爵家の人間だから税の取り方は知識として持っていたけど、実際に庶民として生活してみて、それがどういう意味を持つのかをはじめて理解した。お兄さまが自分の領地で竈の使用料を取ろうとしないのは、きっとそういうことを分かってるからなのね。
私自身はラウラスといっしょに食事ができるだけで嬉しかったし、硬いパンやお粥に不満があるわけではなかったけど。
でも、今はふわふわのパンが無性に食べたかった。
きっとおじさんのほっぺたのせいだ。
「先に外に出て待っておいで。お嬢さんの服を受け取ったらすぐに行くから」
ミルクを飲み干し、私の髪も乾いたタイミングでおじさんが声をかけてくれた。
私の濡れた服も店の主人が厚意で乾かしてくれていた。もちろん完全に乾くはずはなかったけど、その気持ちが嬉しかった。
外に出ると、もうすぐ日が暮れる頃で、あたりは薄闇につつまれようとしていた。
頬に触れる空気はとても冷たかったけど、おじさんが買ってくれた羊毛のワンピースが暖かくて、なんだか気持ちも温かくなる。
「……あれ? ミルテ?」
ふいに聞き慣れた声が聞こえて、私は振り返った。
「ラウラス! 帰ってきたのね!」
ラウラスはにこりと笑った。
「ミルテはこんなところで何してるの?」
「ちょっといろいろあってね、おじさんを待ってるの」
「おじさん?」
「そう。おじさんの帽子を拾おうとしたら水路に落ちちゃってね、それで、おじさんがこの服を買ってくれたのよ」
ちらりと外套をめくってみせる。
ラウラスはなんとも微妙な顔をした。
「水路に落ちたって……。またミルテはめちゃくちゃなことを……。怪我しなかった?」
「それは大丈夫。なんともないわ」
「ほんとに?」
「ほんとよ。私、けっこう運動神経いいのよ。信じられない?」
「僕の知ってる人に、あちこち怪我してても何も言わない人がいるから、どうもね……。それに、怪我するしないに運動神経の良さはあまり関係ないと思うけど」
ラウラスがあまりに渋い顔をするので、私は唇を尖らせた。
「ほんとに怪我なんかしてないのに」
そのとき後ろからおじさんの声がした。
「やあ、お嬢さんお待たせ」
その瞬間、ラウラスの顔が渋いを通り越して、完全に凍りついたのを私は見た。
何だろうとおじさんのほうを振り返る。
そしたら、私がさっきまで見ていた人とはまるで別人のように冷たい顔をしたおじさんがいた。
「……どうして、あなたがここにいるんですか」
──父さん
ラウラスは確かにそう呟いた。