衝撃的な噂2
「そうだよなぁ。どういうことなのか、みんな気になるよなぁ。まさかのエスカラーチェ子爵だもんな」
おじさんが顎髭を撫でながら間延びした声で呑気に言う。
「あの……エスカラーチェ子爵というのは?」
私に怪我がないことを確認したラウラスがおじさんに尋ねる。
「メリディエル家の跡取り息子さ。キアルさまだよ」
「ああ」とラウラスが頷く。そうして、嬉しそうに笑った。
「よかった、お嬢さまが無事に婚約できて。ずっと気になってたんだ」
優しい笑顔を浮かべてラウラスが独りごとのように小さな声で言う。
私のことをずっと気にしてくれていたのは嬉しいけど、気にする方向が完全に百八十度間違っているわよ、ラウラス。
心底ホッとしている様子のラウラスを見て、こちらは心底泣きたくなってくる。
縁談を潰すために私がどれだけ苦労したと思ってるのよ。厄介な事件にまで巻き込まれて。
ラウラスだって毒矢に射られて大変な目に遭ったのに。
……まあ、ラウラスはあの騒動の発端が私の縁談潰しだなんて知らないんだけど。
とにかく私はエスカラーチェ子爵との婚約なんてこれっぽっちも望んでないのよ。
バルコニーで最後に見たエスカラーチェ子爵の様子を思い出して、身震いする。
あの人、絶対に普通じゃない。
微笑みながら迷いなく私に懐剣を突き刺したのよ。
百歩譲って誰かと結婚することは許容するわ。でも、あんな得体の知れない人のところにだけは死んでも嫁ぎたくない。
本当にいったいどうなってるの?
私は懐剣で刺されたはずなのに。
お墓の下にいるどころか、エスカラーチェ子爵との婚約を成立させているなんて。
神の意志による婚約解消を覆すためには、必ず二人揃って様々な手順を踏まないといけない。ということは、私の体は生きていて元気に動いているということだ。
私がこのお姉さんの体を借りているように、私の体の中にも他の誰かが入っているということ?
何がどうなっているのかは分からないけど、とにかくまずい。
さすがに二回目の奇跡なんて起きないだろうし。まさか婚約解消を覆しての再婚約だなんて……。まったくの想定外だわ。
「それって、ほんとにほんとの話なの? エスカラーチェ子爵の婚約相手は本当にブリアール侯爵令嬢? 違う令嬢と勘違いしてるってことはない?」
おじさんはビールを呷ると、空になったゴブレットをカウンターに置いて頬杖をついた。
「勘違いってことはないと思うけどな。エスカラーチェ子爵と一回婚約解消になってるのはブリアール侯爵令嬢だろう? 神の御許しを得て婚約解消を覆したって、もっぱらの噂だもんさ」
それは噂になって当然だし、間違えようもないわね……。
最悪だ。
私はもう座っている気力もなくて、へなへなとカウンターに突っ伏した。
「どうしたの、大丈夫? どこか具合が悪いのかい?」
ラウラスが心配そうに私の肩に手を添えて尋ねてくれる。
私は突っ伏したまま首を横に振った。
「大丈夫、何でもないわ。平気だから気にしないで」
どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
動悸がひどくて息が苦しい。
私が一生このままこのお姉さんの体を借りてミルテとして生きていけるなら、ブリアール侯爵令嬢が誰と結婚しようがどうでもいいけど、私がずっとミルテのままでいられる保証なんてない。
それに、私がずっとこのままだったら、このお姉さんだって困るだろう。
ああ、私……いま独りぼっちなんだ。
急に思い知らされて、そんなつもりはないのに涙がこぼれた。
イデルに会いたいなぁ。
お兄さまに会いたいなぁ。
お父さまにもお会いしたいのに……。
誰にも会えない。
誰にも何も相談できない。
「ミルテ、ちょっとこっち向いて」
私は突っ伏したまま再び首を横に振る。
いま顔を上げたら泣き顔を見られてしまう。
「ミルテ」
なぜか咎めるような強い口調でラウラスが私の名前を呼んだ。肩をぐいっと横に向けられる。
驚いて顔を上げたら、ラウラスと目が合った。
私が泣いてるのを見て、一瞬ラウラスが息を呑んだのが分かった。
「なんで泣いてるの? もしかしてさっきの林檎酒じゃなかった?」
また私は無言で首を横に振る。
まるで首振り人形だ。
ラウラスが驚くのも無理はない。だって、普通に考えて私が泣く要素なんてどこにもないんだから。自分と何も関係のない貴族の婚約話で涙する人間なんてどこにもいないだろう。
お酒のせいと思っても当然だ。
「具合が悪いなら、ちゃんとそう言って」
「具合は悪くないわ。ほんとうよ」
早く止まれ、私の涙。
泣いたって仕方ないんだから。
誰にも相談できないなら、自分で考えればいいのよ。
それだけのことよ。
「それなら、どうして泣いてるの」
私は答えられなくて、うつむいた。
しばらく無言で私の言葉を待ってくれていたラウラスだけど、いつまで経っても私が何も言わないので、やがてそっと私の背中に手をおいて言った。
「帰ろうか」
私は黙って頷いた。
どうせこのままここにいたって、何も喉なんて通らない。
外に出た私は、思わず王宮の方角に目をやった。
ブリアール侯爵邸に行けばお父さまがいるはずなのよね……。
今の私はシュリアの姿とは似ても似つかないけど、《真実の雫》を見せれば、もしかしたらお父さまなら信じてくださったりしないだろうか。
──そうだわ。《真実の雫》の力を使ってみせれば、私がシュリアだと証明できるんじゃないかしら。
あれは私しか使えないものだから。
でも、このお姉さんの体でも使えるのかしら……。
あれこれ考えているうちに、いつの間にか涙は引っ込んでいた。
涙が引っ込んだら、急にラウラスのことが心配になった。
ラウラスはさっきから黙って私の隣をゆっくり歩いてくれている。
「あの……ラウラス、ごめんなさい。食事、私のせいでちゃんとできなかったよね……」
「そんなこと気にしなくていいよ」
いや、気にするし、気になるでしょ、ふつう。
「怒ってる?」
なんだかラウラスの声が刺々しい気がして、隣を歩く彼を恐る恐る見やる。
「怒ってなんかないよ。でもね」
ふいにラウラスが立ち止まった。
「僕はそんなに信用に値しない? それは僕はミルテにとったらよく分からない他人だろうし、泣いている理由を話したくないなら無理に話す必要はないよ。でも、あんな顔しながら平気とか言わないでほしい」
「ごめんなさい。ラウラスのことが信用できないとか、けっしてそんなことは思ってないし、そんなつもりはなかったのよ」
ついでに言えば、よく分からない他人だとも思っていないわ。
ラウラスはよく知っている私の大切な人よ。
言えないけれど。
「今度から気をつけるわね。気にかけてくれてありがとう」
ニコッと笑いかける。
でも、私の目に映ったラウラスの顔は、なぜだか泣きそうに見えた。
私、なんか傷つけちゃったのかな。
ラウラスはいつも他人との間に壁を作っているけど、それは拒絶されるのが怖いからだってことを私は知っている。その特殊な出生のせいで幼いころからずっと辛い思いをしてきたラウラスだから。
なにか私がラウラスのことを拒絶したように思えてしまったのかな……。
「そんな顔しないで。私、ラウラスのこと信用してるし、大好きよ」
ふわりとラウラスのことを抱きしめる。
ほんとにふわりと、ね。
侯爵令嬢では許されないけど、庶民ならこれくらい許されるでしょう。
拒絶なんかしてないと分かってほしかった。
ラウラスは自分が思ってるほど人から悪くなんて思われてない。
ブリアールでだって、たくさんの人から慕われていたし、愛されていたのよ。ラウラスのことが好きなのは、けっして私だけじゃないわ。
いつかそのことを自然に受け入れられる日が来るといい。
でも、そのためには、まずラウラスが自分自身を赦してあげることが必要なんだろう。
「大丈夫。ラウラスは何も悪くないからね」
抱きしめたままラウラスの背中を軽くとんとんと叩く。幼子をあやすように。
そうしたら、ようやくラウラスが笑った。
「何を言ってるんだか。ミルテの話でしょ? 無理して笑わなくていいよ。心配になるから」
そう言って、ラウラスがそっと抱きしめ返してくれた。