夢と現9
◆ ◆ ◆
「ねえ、アル。私を信じて!」
悲鳴にも似た声が薄暗い部屋に響き渡る。
下着姿の女が泣きながら床に座り込んでいた。
「ほんとうにリィリスは無邪気だね。この状況で誰が信じると言うんだ? こんなことが赦されるとでも思っているのか」
女を見下ろすように立っている青年が、冷たい声で容赦なく女を断罪する。
「でも、私は……私はっ!」
「密通だなどと……恥を知れ。おまえとは今日をかぎりに離縁だ」
「アルジェント! お願い、信じて。私が愛しているのはあなただけなの……。信じてよ……」
助けてと、自分の震える肩を抱きながら女は青年を見上げる。水色の瞳はあふれる涙で揺れ、床のうえにひろがる艶やかな長い金髪がどこか哀れだった。
「今さら見苦しいことこの上ないな。今すぐ荷物をまとめてプルウィア家に帰れ。穢らわしい」
「アル……!」
目の前で樫の扉が音を立てて閉められる。
女は冷たい大理石のうえで声もなく泣き崩れた。
◆ ◆ ◆
「ミルテ……ミルテ? どうしたの。大丈夫?」
ああ、これはラウラスの声だ。
私は半ば無理矢理に瞼を押し上げた。
ラウラスが心配そうな顔をして私を覗き込んでいるのが見えた。
「どこか具合でも悪い? すごくうなされていたけど」
「ううん……具合が悪いわけじゃないわ。ちょっとひどい夢を見ただけ」
密通して離縁を申し渡されるとか、どんな悪夢だ。
まるで自分の深層心理を夢という形で突きつけられているようで恐ろしくなる。
目が覚めても、まだ動悸がするわ。
「灯り、このままにしておこうか?」
私はそんなにひどくうなされていだんだろうか。
ラウラスは火を灯した燭台を手にしていた。
「ううん、平気。ごめんなさい、私のせいで起こしてしまったのよね。ただの夢だから気にせず休んで」
「そう? それならいいけど」
ラウラスは蝋燭の火を消すと、またベッドに戻った。
パルドークの宿でいっしょにベッドで休んで以来、それが当たり前のようになっていた。相変わらずきちんと端と端で休んでいて、お互いに手を伸ばしても届かない距離は守っている。
ラウラスが横になったのを確認して、私は改めて仰向けになって考える。さっきの夢のことを。
プルウィア家という言葉が、少し引っかかっていた。
プルウィア家って、たしかレールティ家を興した人の奥方の実家だった気がするのよね……。
でも、プルウィア家は没落して跡継ぎもいなかったから、すでに名前も残っていない。
もう二百年以上も前のことで、私にとってはただの家の歴史という以外の何ものでもないのに、どうして夢に見たりしたんだろう。
それに、リィリスなんて人は聞いたことがないけど……。
レールティ家を興した人の奥方の名前は、たしかティルファ・プルウィア・デュ・レールティだったもの。
まあ、所詮は夢。深く考えることはないかと結論づけて、私はふたたび目を閉じた。
でも、やっぱり夢見が悪すぎて、なかなか寝つけない。
震えながら泣き崩れていた女性の姿が脳裏に焼き付いてしまっていた。
姿が私に似ていたせいもあるかもしれない。金髪で、水色の瞳で。
それとも、あれは私自身だったんだろうか?
密通で離縁なんて、貴族にとっては不名誉極まりないこと。
うちのおばあさまだったら、そんな理由での出戻りなんて絶対に許さないだろう。間違いなく勘当だし、下手したら自害しろと言われそうだ。
そもそも密通は立派な罪。離縁どころか結婚相手から打ち首にされたっておかしくない。
「ラウラス、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
「あのね……」
胸のなかにある不安をうまく言葉にできなくて言いよどむ。
どんなにラウラスのことが好きでも、私はいずれラウラスとは離れ離れになる。
侯爵令嬢シュリアとしての私の気持ちが、ラウラスに害しか為さないことも、もうよく理解している。
そして、このお姉さんの体の中にだって、いつまでいられるのか分からない。
「あのね、ラウラスはブリアール城で庭師をしているんでしょう? ブリアールのお庭、好き?」
「もちろん好きだよ」
穏やかな声が即座に返ってくる。
うん。そうだよね。
「私、頑張るね」
あなたの大切な居場所を奪ってしまわないように。
あの夢の中の女性のように、相手から冷たい目で見られて泣き崩れるような結末は迎えたくないもの。
「いったいどうしたの?」
不思議そうな声で返すラウラスが、顔をこちらに向けたのが気配で分かった。
「ん……なんとなくね。そういう夢を見たの。おやすみなさい」
いっしょにいることだけが幸せじゃない。
ラウラスが穏やかに笑って過ごせる場所を守ることも、私にとっては大切なこと。
彼が彼らしく笑っていられることも、私にとっては立派な幸せだ。
それに、悲劇のヒロイン気分に浸ってしんみりしてるのも好きじゃない。
今はミルテとしてラウラスのそばにいられるんだし、今できることをやればいい。
とりあえず、何かラウラスの手助けができれば。
そんなことを考えているうちに、私はいつの間にかまた眠りに落ちていた。