夢と現4
ラウラスは左手にランタンを持ち、右腕に籐の籠を抱えていた。
「僕は薬草を採りに行っていただけだけど、ミルテは? もう行くの?」
「えっ。えと、あの、ごめんなさい……。私、その……」
助けてくれた相手に別れの挨拶もせず、黙って行こうとしていた自分がものすごく恩知らずで卑怯な人間に思えて、自然と声が小さくなってしまう。
「なにを謝ってるの? 先を急ぐんだろう? みんなそれぞれ事情があるんだから、ミルテの体調さえ問題ないなら、いちいち僕に気を遣わなくていいよ」
「ラウラス……」
この一年、社交の場で数えきれないくらい男の人と接してきたけど、こんなにも素朴で自然な優しさをくれる人はいなかった。
というより、私をひとりの人として見て、優しく接してくれる人はいなかった。ブリアール侯爵令嬢に付随してくる地位と財産が欲しくて優しくしてくれる人なら、掃いて捨てるほどいたけど。
いつもシュリアという人間は物でしかなくて、オマケ以下の存在に過ぎなかった。あくまで主役はブリアール侯爵令嬢という肩書きだったから。
「これ、あげるよ。煎じて飲むといい」
そう言って、ラウラスは籠の中から植物の束を取り出した。
「これは?」
「血をつくる作用のある薬草」
「え……と……?」
なぜそんなものを私に?
よく理解できなくて私が首を傾げていると、ラウラスは神妙な顔で私に問った。
「きみ、最近どこかで瀉血したんじゃない?」
「しゃけつ?」
「血を抜くこと。西のほうでは病の一般的な治療法になってるって聞くけど、病を治すなら悪い血を抜くよりも、むしろ良い血を作ったほうがいい。こんなこと言うのも何だけど、まだ顔色があまり良くないよ」
このお姉さんが実際にシャケツとやらをしているのかどうかは分からなかったけど、ラウラスの顔があまりに心配そうだったので、素直に薬草を受け取ってお礼を言った。
「隣の町に行けば、僕と知己の商人がいるから、クレハールのほうに行く馬車を探してもらうこともできるよ? 地道に歩くより速いし、何より女の子ひとりで行くより安全だと思うよ」
「あなたも次の町で馬車を探すの?」
「いや、僕は歩いて行くから」
「どうして? 馬車のほうが速くて楽なのは、あなたも同じでしょ?」
「うん。そうなんだけどね」
ラウラスは穏やかに微笑んでいるままだったけど、急に言葉の歯切れが悪くなった。
そういえば、昨日も都に行くのを急いでないとか言っていたわよね……。
やっぱりラウラスは行きたくないのね、父親のいる都に。
王妃さまに呼ばれて仕方なく向かっているけど、もし今からでも断ることができるなら、断りたいに違いない。
だから、ラウラスはわざとゆっくり都に向かっているんだわ。少しでもその時を先伸ばしにしたくて。
「私の心配ばかりしてくれるけど、あなたも元気がないように見えるわよ。大丈夫なの?」
「え?」
「こんな時間に薬草を採って帰って来てるなんて、夜ほとんど眠ってないんじゃないの?」
自分で言ってから気づく。改めてラウラスの顔を見ると、目に力がない。疲れた顔をしている。
「ちゃんと睡眠はとらないとダメよ」
私がそう言うと、ラウラスは苦笑した。
「どうせ眠れないから。何かしてるほうが落ち着くし、疲れれば自然と眠れるから。そういう意味でも、僕は歩いて行ったほうが都合がいいんだ」
「あなた、それ、笑って言うこと?」
「あ、そうだね。ごめん。どうでもいい話で引き留めてしまったね」
「そうじゃなくて」
眠れないって、どういうことなの?
このお姉さんより、ラウラスの体調のほうが問題なんじゃないの?
「あなた、ちゃんと食事はしているの? 眠れないとか、笑って言ってちゃダメよ。都に着く前に倒れてしまうわよ」
「そうだね。気をつけるよ」
ラウラスは落ち着き払った声で答えた。
ああ、この人、嘘を言ってる。
直感でそう感じた。
ラウラスはきっと、むしろ都につく前に倒れたほうがいいくらいに思っているんだわ。
そんなに嫌なんだ。都に行って、父親の存在に触れることが……。
私は、ほんとうにブリアールに帰るべきなんだろうか。
ふと、そんな考えが脳裏をよぎった。
今ここでラウラスを独りにして、私は後悔しないと言い切れるだろうか。
もしもこのままブリアールに向かったとして、着くのは何日もあとだ。仮に私の体がお墓の下ではなく、ベッドの上にあったとしても、よく考えれば、そこから先にある未来は墓場も同然。
どうせお金と結婚して、旦那が美人の妾を侍らせているのを横目に、お城の奥深くで虚しく歳を重ねていくだけの人生なのだから。
だったら、このままラウラスの傍にいるほうが正解ではないかしら。
私がいつまでこのお姉さんの中にいられるのかは分からないけど……。
たとえこのまま元の体に戻れなくて死んでしまうことになったとしても、少しでもラウラスの役に立てるほうが後悔しないし、私にとって良い人生と言えるんじゃないだろうか。
「私、決めたわ」
「え?」
「私、あなたと一緒に都まで行く。いいでしょ?」
「えっ? いや、でも、僕は徒歩でゆっくり行くから……」
「分かってる。それで構わないわ。私もべつに先を急いでるわけじゃないから」
なんだか憑き物が落ちたように、頭の中がすっきりしていた。
迷いなんてものは微塵もなかった。
ラウラスの抱えている籐の籠を引き受け、貰ったばかりの薬草を籠の中に戻すと、まっすぐにラウラスの緑の瞳を見つめた。
「まずは宿に戻って休まないとね」
笑いかける私に戸惑いでもしているかのように、ラウラスはぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。
「ほら、行きましょう」
そうして私は踵を返し、もう一度宿に向かって歩き出した。