夢と現3
私はきゅっと下唇を噛み、それ以上問いを重ねることはできなかった。まさかブリアール侯爵の娘はどうしているかなんて尋ねるわけにはいかないから。
そんなピンポイント過ぎる質問をしたら、確実に怪しまれる。
私の正体がどうとかいうことではなく、このお姉さんの身元を怪しまれること自体が面倒だ。だって、ラウラスはブリアール侯爵家の庭師なのだから。そんな人に見知らぬ人間がブリアール侯爵家のことを偶然尋ねるなんて、誰が思うだろう。誰だって裏があると思うに違いない。
……いや、待って。
このお姉さんをシュリアの知り合いということにしてみたらどうかしら。
改めて今の自分の格好を見直してみる。
けっして上等とは言えないけど、そこそこ良い生地の服を着ているし、スカートの長さが足首までしかないから、少なくとも農民ではなさそうだ。この国の農村の女性は足元まで隠れる長いスカートをはいているものだから。
実際、私は仕立て屋のミリッシュとも親しかったし、このお姉さんならシュリアの知り合いで押し通せないこともない。
だけど。それでもやっぱり怪しまれるかな……。
「大丈夫? まだ具合が悪い?」
うつむいて黙り込んでしまっていた私に、ラウラスが気遣わしげに声をかけてくる。
なんだか急に悲しくなってしまった。
ラウラスの声を聴けるのは嬉しいはずなのに、そのいっぽうで、もう聴きたくないと思ってしまう自分がいる。
優しい声なんて聴かせないでほしい。
どうせすぐに離れなければいけないし、どうしたって一緒にはいられない人なのだから。
「ごめんなさい。やっぱり具合がよくないみたい。今日はこのまま休ませてもらっていいかしら」
そして、夜が明ける前にこっそり抜け出してブリアールに向かおう。
そう決意して、膝の上でこぶしを握りしめる。
そのときふと目に入ったものに、思わず息を呑んだ。
左袖の中から金色の何かがちらりと覗いていた。
怪しまれないようにさりげなさを装いつつも、急いで左手を背後に隠す。
袖をめくって確認するまでもなかった。それは私がいつも身に付けている《真実の雫》のブレスレット。金のメダルにはレールティ家の紋章が刻まれている。
体が違うのに、なぜブレスレットだけが私の腕にあるのかなんて考える余裕はなかった。とにかくこれをラウラスに見られてはまずい。そんな焦りでいっぱいで、知らず冷や汗が流れた。
「顔色がよくないね。あとでスープだけ持ってくるから、もし口にできそうならそれを少し口にして、今日はもうゆっくりおやすみ」
「そうさせてもらうわ。ありがとう」
まともにラウラスの顔が見られなくて、目を伏せたまま早口で答える。言葉に詰まることなく話しきることができたのは奇跡的だ。
ラウラスがゆっくりと踵を返して、私から離れていく。
もう二度とこんなに近くで顔を合わせることも、言葉を交わすこともないかもしれないのに……。
そう思うと、彼の背中を追って駆け出しそうになる自分がいたけど、膝の上に置いた手で脚を押さえつけ、なんとか耐えた。
けっきょくその夜はほとんど眠れなかった。
東の空がわずかに白みはじめるのを待って、予定通りこっそりと宿を抜け出た。
冬の冷たい空気が容赦なく肌を刺し、あっという間に感覚を失ってしまった手に息を吐きかけながら町の外に向かって大通りを歩く。
もうすぐ夜が明けるとはいえ、まだ薄闇が支配している時間帯だ。すれ違う人はほとんどいなかった。
宿を抜け出してきたものの、ここからいったいどうやってブリアールまで行こうか。歩いて行くとなると、かなりの日数がかかる。お金も食料も持っていないし……。困った。
「だけど、もともとこのお姉さんも旅をしていたのよね? いったいどうしていたのかしら」
銀貨の一つでも入ってやしないかと、改めて服のあちこちに手を入れてみる。
やっぱり何もないなと肩を落としかけて、はたと手が止まった。
「何だろ、これ」
胸元の部分の生地が二重になっていて、隙間に指輪らしきものが入っていた。
「これ、象牙かな」
指輪全体が真っ白で、宝石とかはついていなかった。
何かの模様が彫ってあったけど、それが何の模様なのかまでは私には理解できなかった。
何にしろ、これはこのお姉さんのものだから、私が勝手に売り払うわけにはいかない。
けっきょく今の私が自由にできるものと言えば……。
左手首にあるブレスレットをまじまじと見つめる。
水宝玉がいくつも連なっているし、真珠もあるし、金のメダルもある。これを売れば、それなりの金子にはなるだろう。
「でも、やっぱりダメよね……。いちおう家宝だし」
今さらながら、こんなものを無防備につけて歩いていては物盗りに目をつけられるんじゃないかと思い至り、お姉さんの指輪と一緒にブレスレットも胸元の隠しに仕舞った。
今はあれこれ考えて立ち止まっていても仕方ない。とにかく前進あるのみだ。お腹が空いたら空いたで、そのときにどうするか考えよう。
寒くて体温が奪われていくということもあって、自然と早足になる。
噴水のある広場を抜け、ひたすら町の外れを目指す。それほど大きな町ではないので、きっと太陽が地平から完全に離れきる前には町を出られるはずだ。
ずっと小走りだったせいか、だんだんと体も温まってきた。
このお姉さんは私より背が高くて脚も長いせいか、その感覚に慣れなくて、ときどき脚が絡まって転びそうになるのと、立ちくらみがするのは難点だったけど、体は軽かった。
この町は神殿の屋根が緑色をしていて特徴的なので、都に行くときに通ったことがあるのを覚えてはいたけど、侯爵令嬢の私は基本的に馬車でしか移動しないから、ブリアールへの道なんてさっぱり分からない。とりあえずは西に向かって歩けばいいか……なんて思っているうちに、町の外れまで辿り着いた。
「あれ……? ミルテ? こんな朝早くに、こんなところで何をしてるんだい?」
いきなり声をかけられ、一瞬にして私は凍りついた。
……いや、お兄さん、それは完全にこっちのセリフですよ。
「あなたこそ、こんな時間にここで何をしているの?」
私をミルテと呼ぶのは、今のところこの世に一人しかいない。