夢と現1
『ねえ、あとどれくらいしたら遠駆けできるようになるかしら?』
尾花栗毛の馬の首筋を撫でている少女が後ろを振り返る。
馬とおそろいであるかのように少女の髪も金色で、厩舎に入り込んでくる陽光にやさしく縁どられていた。まるで光の精霊から祝福を受けているかのように。
『さあ、どうだろうね』
少女の視線の先にいる青年は曖昧に笑った。
『どうして急に乗馬を始めようだなんて思ったんだい? 馬は怖いと言っていたろ?』
少女は愛おしげに馬を撫でながら、馬のほうへ顔を向けた。
『怖いと思っていたけど、近くでよく見ると優しい目をしているなって気づいたの。あなた、馬で遠駆けするのが好きでしょう? 私も馬に乗れるようになれば、あなたと同じ景色を見に行けるかと思って』
『わざわざ自分で乗らなくても、言ってくれればいつでも私が乗せてあげるのに』
『だって、それだとあなたの顔がよく見えないじゃない』
少女がくちびるを尖らせると、青年は堪えきれないといった様子で笑いだした。
『君はほんとうに面白いね』
『そうかしら。ふつうだと思うけれど。好きな人と同じものを好きになって楽しめるなら、その楽しさは何倍にもなるでしょう?』
『そういうものかな?』
『そうよ。あなたはそうじゃないの?』
青年は何かを考えるように一瞬遠い目をしたあと、どこかぼんやりとした様子で少女の撫でる馬を見やった。
『そうだね。そうかもしれない』
左腕を反対の手でぎゅっと掴み、青年が神妙な表情で答える。その様子に、今度は少女のほうが笑いだした。
『そんなに真剣に考え込むこと? おかしな人ね。それより、早く外へ行きましょう。このコも早く外に出たがっているわ』
顔を寄せてくる馬に目を細め、少女は両腕で抱きかかえるようにして愛馬に応える。
『すっかり君になついているね』
苦笑いを浮かべながら青年は眩しそうに少女を見つめ、ゆっくりと少女に歩み寄った。
◇ ◇ ◇
ああ、私もラウラスと同じ景色を見たくて、一生懸命に花の名前を覚えたっけな。
夢に刺激され、そんなことを思い出す。
ただ同じものを目に映すだけではなくて、彼の心に世界がどんなふうに見えているのか、それを知りたくて、彼の好きなものを好きになりたいと思った。
けっきょく私は、彼の心に映る景色の欠片すら見ることはできなかったけれど……。
ズキズキと疼く胸に呼吸まで圧迫され、息苦しくて涙がにじみそうになる。
そこでハッとした。
慌てて胸に手をやる。
ぼんやりとしている視界と頭から霞を払うように強く首を振ると、頭が何か柔らかいものに擦れて、さらにまた息をのんだ。
なかなか視界がはっきりしなくて、がさがさと手だけを動かして周囲にあるものを触れてまわる。
どうやら私は柔らかなリネンの上に横たわっているようだった。
けれど、いくら触れても、エスカラーチェ子爵に刃で貫かれたはずの胸に傷らしきものはなく、痛みもなかった。
そのことに安堵するもより先に、今度はまったく別の異変に気づいてぎょっとした。
私の胸って、こんなに大きかったっけ?
なにやら一秒でも早く頭をしっかり目覚めさせる必要がある気がして、自分の頬を力いっぱい叩いた。
「何なのよ、これ!!」
指に絡みついてきた真っ黒な糸。
「嘘でしょ!?」
思わずその真っ黒な糸を目の中に入れる勢いで引き寄せると、頭皮がキリキリ痛んで涙がにじんだ。
真っ黒な糸は私の頭に繋がっていた。つまり、これは私の髪ということ?
いや、そんなバカな。私の髪は生まれつき金色だ。絶対に黒髪なんかじゃない。
かがみ。鏡はどこかにないの!?
飛び起きると頭がグラグラしたけど、もはやそんなことに構っている場合ではない。
あたりを見回し、鏡とかガラスとか、とにかく自分の姿が映りそうなものを焦燥感に焼かれつつ探す。
そこは質素な狭い部屋で、家具らしい家具はほとんどなく、私が寝ていたベッドの他は椅子が一つあるきりだった。
幸いガラスの入った窓があったので、駆け寄ってガラスの中を覗きこむ。
今は夕方なのか、外は薄暗かった。だからこそ、はっきりとそこに映る姿が見えた。
「なによ、これ……」
ペタペタと自分の頬をさわると、ガラスの中の人物も同じように動いた。
信じられないけれど、認めるしかない状況だった。
「別人じゃないのよ!」
そもそも声だって私のものじゃない。
私の声よりも細くて高い。
髪の色も容姿も体型も、何もかもが私のものじゃなかった。
ガラスに映っているのは、私とは正反対の、出るとこは出ていて締まるところは締まっているスタイルの良い乙女。歳は私より少し上に見えるけど、まだほんの少しだけあどけなさが残っている。二十歳前後といったところだろうか。
けっして派手な顔立ちではないけれど、大きな目がとても印象的で、誰が見ても無理なく美人の範疇に入れてもらえるだろう。
ただ、肌は病的に白くて、それが彼女を儚げに見せていた。
「私、まだ夢を見ているのかしら」
腕やら頬やら、あちこちつねってみるけど、痛いのか何なのかよくわからなかった。
うん。これは夢だ。夢に決まってる。
「起きたのかい?」
ノックと共に聞こえてきた声に、一瞬意識が遠のいた。
ダメだ。私の頭はもう、末期的症状を見せている。
訳のわからない絶望感に襲われ、足元がふらついた。
「入るよ」
そう言って扉の向こうから姿を現したのは、艶やかな褐色の髪をうなじで束ね、肩から流している整った顔立ちの青年。
穏やかで優しい緑の瞳は、心配そうに私のほうに向けられていた。
「もう起き上がって大丈夫なのかい?」
少しハスキーで、耳に心地よく残る柔らかな声。ゆっくりとしていて慈愛に満ちた口調。
胸の奥底で何かが強く震えて、思わず自分の両腕を抱えてしまった。
ずっとずっと聴きたくてたまらなかった声に、涙がにじんでくる。
「ああ、ごめん。驚いたよね。僕のこと、覚えてないかな……。昼間、君は僕に道を尋ねたんだけど、そのまま気を失っちゃって……。おぼえてる?」
もちろん、そんなことは記憶にあるわけがない。だから、無言で首を横に振った。
聴きたくてたまらなかったその声に胸は詰まるし、何が起きているのか理解できないしで、もはや言葉なんて出てこない。
「とりあえず座って話そう。気分は悪くない?」
私はやっぱり無言で頷いた。
じっと彼のほうを見つめていると、彼は女神かと思うほどあたたかい笑みを浮かべた。
「具合いが悪ければ遠慮せず言って。僕は医者ではないけど、簡単な知識はあるし、薬の調合もできるから」
うんうんと、私は頷いた。
知ってる。あなたがそのへんにいる町医者よりもずっと的確に薬を処方して調合すること。
「大丈夫。人拐いとかじゃないから、心配しないで」
また、うんうんと頷く。
頷くだけで動こうとしない私を見かねたのか、彼は私に手を差し出した。
「ほら、ずっと立っていると疲れるから。まだ顔色が良くないよ」
私は差し出された手を信じられない思いで眺めるしか出来なかった。
彼がこんなふうに私に手を差し出してくれたことなど、今までたったの一度もなかったから。
迷いながらも恐る恐るその手を取ると、彼の体温が指先から一気に全身を駆けめぐるような錯覚にとらわれた。
首筋と肩がぞくぞくと震える。
その生々しい感覚は夢とは思えなかった。
「僕はラウラス。君の名前、訊いてもいい?」
その名前を耳にしたとたん、また涙がこぼれそうになった。