銀梅花11
直接訊かれたことはないけれど、ウィリディリスの名が示すものを、伯爵はおそらく正しく理解している。だけど、その名に利用価値がないことまで知っているのかどうか……。
国王のそばにいる父を動かそうとするなら、僕という存在は逆効果だ。
これまでに僕が真実を話したのは、お嬢さまお一人しかいない。そのお嬢さまが兄である伯爵に話したとすれば別だけど、内容が内容だけに、お嬢さまが軽々しく口になさるとは思えない。
「ほんとうに、私に価値などないですよ」
「しつこいやつだな。それを決めるのは俺だと言ったろう。とにかく、おまえはもう庭に出て普通に仕事をしていいぞ。おばあさまのことは気にしなくていい。俺が話をつけておいたからな。もしブリアールが嫌だというなら、俺の城に来い」
「あの……、伯爵は怒っていらっしゃらないのですか」
「なにを」
「私がメリディエル家との縁談を台無しにしたと……」
「ああ、その話か。正直、俺はどっちでもよかったんでな、気にしちゃいない。シュリアの手を汚させなかったという意味では、むしろ良い結果だったんじゃないか」
「手を汚す?」
「まあ、いろいろあるのさ」
それ以上、僕も深く追求したりはしなかった。貴族の方々には庶民には理解できない事情がいろいろとあるのだろう。庶民の僕は、きちんと分をわきまえていないと、ろくなことにならない。
「ただし、おまえの謹慎処分を解くには条件がある」
「何でしょうか」
「書物をつくれ」
「はい? 書物、ですか?」
あまりにも意外な答えに、僕は目を瞬いた。
「そうだ。おまえ、薬草に詳しいだろう。その知識で薬草の書物をつくれ。必要なものがあれば、俺がすべて揃えてやる」
「あの……、なぜそのようなことを?」
「薬草の正しい知識があれば、助かる人も多いだろう」
「ええ、まあ、それはそうかもしれませんが」
あのグラースタ伯爵が、それだけのために動くはずがない。間違いなく裏の理由があるだろう。だけど、訊いたところで伯爵からそれ以上の答えは得られそうになかったので、これも追求することをやめた。
「来年の春までには原稿をまとめておけ」
僕には「はい」としか返事のしようがなかった。
「ところでおまえ、シュリアの心を覗いたんだよな? 何が見えた?」
「え……と、あの……」
グラースタ伯爵というのは、本当にどこまでも自分本位で話を進める人のようだ。
伯爵の表情に面白がっているような様子は見えなかったけれど、いくらお嬢さまの兄上とはいえ、他人の心の内を僕が勝手に口にしていいものか。
そもそも何かが〝見えた〟わけでもないので、説明しようにも困る。
あのときお嬢さまが僕と共有してくださったのは、何かの具体的な光景などではなく、漠然とした感情なのだから。
他人の心を恐れて避ける僕に、少なくとも自分は怖くないと示すために、お嬢さまは自らの心の内を見せてくださった。
今にして思えば、他人の胸の内を恐れているのはお嬢さまも同じだったろうに。
あのときお嬢さまから伝わってきたのは、純粋な好意だ。僕が植物を相手にするときと同じ。警戒心も何もなく、ただ温かい感情で満たされる感覚。
伯爵の言うとおり、お嬢さまは本当に根が強いお人なのだろう。もし僕だったら──。
「そういえば、他人の心を覗くって、具体的にはどうやるのですか? 常に見えているわけではないですよね?」
もしも常に他人の心が見えるとすれば、お嬢さまは僕に対してあんなに温かい感情は抱かないはずだ。
「おまえ、ほんとうに何も知らないんだな」
伯爵は驚きを通り越して呆れたとでも言わんばかりに肩をすくめた。
「口づけたときに、相手の心が見えるんだよ」
「ああ、そうでしたか」
少し安心した。
それなら僕の心が覗かれるような心配はない。
僕の中には冷たいものしかないから。そういうことは、お嬢さまには知られたくない。
「それで? 俺の質問には答えないのか?」
「いえ、その……。一瞬のことでしたし、よく憶えていないので、答えようがないだけです。申し訳ございません」
「まあまあの回答だな」
そう言うと伯爵は席を立ち、「またな」とだけ言い残して部屋を出て行った。