銀梅花8
いくら考えても答えは出なくて、ただもう早くここを出て行くべきだという気持ちだけが強くなった。
何かに執着すると、こうやって心を乱されることになるから嫌なのだ。心を乱されるのは好きじゃない。
余計なことはもう、ごちゃごちゃと考えたくなかった。
早くここを出て、また植物相手に静かに暮らしたい。
けれど、「明日来る」と言っていたはずのエリダが二日待っても来なくて、そのまま黙って出て行くのも悪い気がしたので、同僚に文をお願いすると、すぐに返事がきた。
急な来客予定が入ったので、その準備で忙しくて時間が取れないと。
「どうしたものかな……」
頬杖をつき、エリダからの文を掲げ見る。
麻紙に書きつけられた文字をながめているはずなのに、なぜだかうつむいているお嬢さまの姿がちらついて、溜息がこぼれそうになる。
「ほんとうに、どうしたものかな」
何度目になるか分からない溜息を止めようとして息を詰めたとき、ふいに表のあたりが騒がしいことに気がついた。
けれど、ざわめきが聞こえたのはほんのわずかの間で、すぐに静かになった。
騒がしいのはエリダが来たときくらいで、庭師のほとんどが出払っているこの時間帯にここが騒がしくなるなんて珍しい。
仕事中に誰かが怪我でもしたのだろうか。もしそうなら、そのうち誰かが僕を呼びに来るはずだ。
エリダの文を仕舞いながらそんなことを考えていると、案の定、部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「何かありましたか?」
扉を開けると、そこには庭師長が困惑気な顔をして立っていた。
「誰か怪我でも……?」
庭師長が言葉を探しあぐねているところ見ると、よほどひどい怪我人なのだろうか。
それともまったくの別件で、なかなかブリアールを出て行かない僕に対して痺れを切らした大奥さまが、ついに出て行けと自らご命じになったとかだろうか。
「何があったんです?」
「それを訊きたいのは私のほうだ」
「え?」
「お客様がいらした。おまえに会いたいそうだ」
「お客? どなたですか?」
庭師長がこんなに困った顔をするような知り合いはいないつもりなのだけど。
そもそも、僕を訪ねてここまで来るような人物に心当たりがない。
首を傾げていると、扉の横からもう一人の人物が姿をあらわした。
「よお、元気にしてるか」
これはたしかに庭師長が困惑しても仕方ないと、即座に納得した。
僕自身、我が目を疑ったほどだ。
「グラースタ伯爵? あなた様がなぜここに……」
そこにいたのは、このレールティ家の長男で、今はべつの城に居を移しているグラースタ伯爵だった。
相変わらず神話から抜け出してきた軍神のような、強烈な存在感のあるお方だ。
伯爵は、呆然として固まってしまっている庭師長や僕を見て面白がっているかのように片頬を上げた。
「シュリアの見舞いと、その他諸々の用事があってな」
「ですが、その……なぜ私などのところへ?」
僕がブリアールの庭師を辞めることについての文をグラースタ伯爵に出したのは、つい昨日だ。いくら何でもまだ伯爵のもとへは届いていないはずだから、僕の進退の件で訪ねてきたのではないだろう。
だけど、だとしたら、他に要件がまったく思い当たらない。
「まあ、それはこれから話すさ」
そう言うと、伯爵は優雅な身のこなしで当然のように僕の部屋に足を踏み入れた。
「あのっ、客間のほうへ──」
驚いて僕が声をかけると、伯爵は「ここでいい」と短く返してきた。
伯爵という身分の方が庭師の宿舎に訪ねて来るだけでも信じられないのに、そのうえ粗末な部屋で話をしようだなんて、普通なら考えられなかった。
「早く来い」
早々に椅子に腰掛けた伯爵は、いつまでも戸口で突っ立っている僕に呆れたように声をかけてくる。
「そこに座れ」
伯爵相手にどこにどう控えればいいのか困惑する僕に、伯爵自ら向かいの椅子に座るよう指で示してくる。
恐る恐る言われたとおりの場所に腰かけながら、ふと思った。
エリダが言っていた急な来客というのは、グラースタ伯爵のことだったのかもしれない、と。