略奪の罠
妻が突然実家に帰ってから1週間が経った。その日、私が会社から帰宅すると、郵便ポストに妻からの離婚届が届いていた。同封されていた手紙には、こう書いてあった。
『もう私はあなたを許す事はできません。結婚する前、浮気は絶対にしないと私の前で誓っておきながら、2回も浮気する人とは、一緒に生活する事はできません。これは裏切りです。先日、女性の探偵の方が家に来て、あなたの事を一部始終聞きました。最初は当然信じる事はできず、何回か引き返してもらいました。でも、その女性の探偵から見せられた写真で、私の考えが一転しました。その写真には、あなたの浮気現場の写真が写っていました。その後、何度かあなたと話し合いをしましたが、もうあなたの言う事が何も信じる事ができなくなりました。今の私には離婚しか考えられません。
この離婚届にあなたの署名捺印をして、私の実家に送ってください』
私の2度の浮気が原因で、妻は実家に帰ってしまったのだ。
1度目の浮気は、会社でのストレスを少しでも解消しようと、1人でバーで飲んでいた時、たまたま隣に座った片桐麻里という女性と意気投合し、酒の勢いでそのままホテルに行ってしまったのだ。自分でもなぜあのような軽率な事をしてしまったのか、未だによくわからない。記憶に残っているのは、あまりにも麻里が積極的で且つ魅力的だった事だ。それから何度か同じ事を繰り返した。しかし、麻里はその後、2人の関係を私の妻になぜか暴露したのだ。
そして2度目は、同じ会社に勤める神谷由美という若い女性社員との浮気だった。ある日、会社帰りに2人で居酒屋とカラオケへ行った。あの日の由美は、会社での清楚でまじめな彼女ではなく、妖艶な笑みを浮かべ、それが怪しい小悪魔のようにも見え、そのギャップが異常に魅力的だった。私は、そのまま由美とホテルに行ったのだ。その時の写真を、妻はどうやらある探偵から見せられたのだ。探偵を依頼したわけでもないのに、なぜ見せられたのか。そこに写っているのが紛れもなく旦那である私だったため、疑いの余地もないと思い、その写真を私に突きつけてきたのだ。今考えるとなぜその写真を、知らない探偵が渡しに来たのか、もっと疑問に思うべきだった。
私は暫く考えてから、携帯を取り出し、何とか許してもらうために、妻に連絡をしようとした。その時、ピンポーンと玄関のチャイムがなった。私は、妻が帰ってきたのだと思い、玄関のドアを開けた。しかし、そこに立っていたのは、2年前に別れた、綾香だった。
5年前、私はある地方の支店に転勤となり、綾香とはそこで知り合った。2年ほど付き合ったが、私が東京本社に転勤になったとき、綾香は「どうしても東京には行けない」と、私と一緒に東京へ来る事を強く拒んだのだ。そして、私が東京に来た後、綾香は会社を辞め、結果的に別れてしまったのだ。
「綾香? どうしたんだ。急に」
「やっと会えたわ。真一さん」
私は驚いた。綾香は2歳くらいの子供を抱いていたのだ。
「子供?」
と私は聞いた。
「ええ、あなたの子供よ」
「俺の子供?」
私は一瞬、綾香が冗談を言っているのだと思ったが、それはすぐに打ち消された。綾香が真顔で私を見つめていたからだ。私は、しばらくその場に立ちすくみ、2~30秒くらいの沈黙が続いた。
ふと我に返り、とりあえず綾香と子供を部屋に入れ、リビングのソファーに座らせた。
「そう。あなたが東京に行った後、産んだの」
「えっ。あの時お前、妊娠していたのか」
「そうよ。あなたとの東京行きは、死ぬほど悩んだわ。でも、あなたは地方での仕事の成績を買われて、急遽、東京本社に戻るように異動を命じられたわよね。社内でのできちゃった結婚は規則違反と言えるほど、社内ではマイナスになり、出世に大きく影響するという社風から、私が妊娠した事であなたのチャンスを逃したくはなかったの」
私はその時初めて、綾香が私の出世のチャンスのために、自分の妊娠までも私や会社に隠そうとしていた事、そして綾香の私に対する優しさや愛情があった事を知ったのだ。妻が、私の浮気が原因で離婚話を持ち込んできた事と、綾香という女性が私に対する思いを知った事で、心の中は複雑なものへと変わっていった。
「今。何歳なんだい?」
「2歳2カ月の女の子」
「女の子か・・・。名前は?」
「マコ」
「マコ?」
「どんな字を書くの?」
「真の子で真子」
「正真正銘、真一さんの子供だから、真子」
私は絶句した。将来、一緒になれるかどうかわからない私の名前を子供の名前に入れるほど、私の事を思ってくれていたのだ。そして、私は綾香を愛おしく思った。
「大変な思いをさせてしまって、すまなかった。養育費はどうしていたんだ?」
「子供を産んだ後は、親から援助してもらっていたけど、半年ほど前から、生活のために知り合いの会社で働いているのよ」
綾香は少し笑みを浮かべた。
それから半年後、以前の妻とは正式に離婚し、綾香と結婚した。結婚と同時に、綾香は知り合いの会社を辞め、家事と育児に専念するようになった。真子もすくすくと育ち、幸せな日が続いていた。
ある日、夜中にトイレに起きた時、綾香がリビングで誰かと携帯で話をしている声が聞こえた。私がこっそりと話を聞いていると、妙な事を言っている。
「うん、そうよ。何もかもうまくいった。真一さんとこうやって結婚できたのも、全て麻里と由美のお陰よ。ありがとう」
麻里と由美? 私には身に覚えのある名前だった。
翌日、私は綾香にある事を聞いてみた。
「綾香。そういえば以前、知り合いの会社で働いていたと言っていたけど、どんな仕事をしていたんだい?」
綾香はその答えに躊躇していたが、ようやく口を開いた。
「私ね。知り合いの探偵事務所で、探偵をやっていたの」
綾香は、小悪魔のような笑みを浮かべた。