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春の一日

 ハイキングコースは思っていたよりも大変なものではなかった。長い間整備されていなかったからだろうか、野草が道を覆うようにあちこちから顔を出していた。山の中は様々な色の花が開き、緑色のキャンパスを賑やかに、鮮やかに、そして美しくしていた。いくらか歩けば草の中からバッタのような小さな虫が飛び出し逃げていく。僕はそれを無視して穏やかな日のもとでただ頂上を目指して歩き続けていた。

 12キロの道のりは午前中の間に終わってしまった。頂上には小さな屋根つきのスペースと、その横に水道の蛇口が一本。僕は迷うことなく頭から水をかぶる。ひんやりとした水が亜頭から流れ落ち顔を伝って下に落ちていく。とてもきもちいい。手で神に着いた余分な水分を払い一息つく。大きく息を吸い、そして大きく息を吐き出した。空気がおいしいというのはこういうことなのかと実感する。空気に余分なものが含まれていないというか、それはただ純粋な空気という感じがした。自分の住んでいたあの町から遠く離れた場所に来てしまったということを嫌でも痛感させられる。だがしかし、そこに後悔はなく、むしろ安心感が僕にはあった。そう、ぼくはもうあの町にいないのだと。



 次の駅で降りて彼のいた場所まで戻ってきたときにはすでに日は高く昇ってしまっていた。もちろんそこに彼の姿はなく、あるのは静かな自然だけだ。あたりまえだ。彼は私が追いかけてきているなんて夢にも思っていないだろう。だけど、それでも私は少しさびしかった。もしかしたら待ってくれているかもしれないなんて甘い幻想を一度描いてしまったからだろう。私は彼が歩いて行った方に向けて歩き出す。しばらく行くと小さな案内板が立っていた。木でつくられたそれには手作り感満載な字でこの先にハイキングコースがあることを告げる。普段は運動をしない私にとってこの道のりはなかなかに長い気がした。

 道はどこまでも一本しかなく、その道はきっと彼につながっているのだろう。だとすれば今の私にできることはただ進むことしかないのだ。進めばいつか彼と出会える。その出会いが私の何かを変える気がした。具体的に何が、と言われれば分からない。ここまで私を動かせた彼ならば。木々の隙間から零れ落ちる光のトンネルの中を私は進んだ。



 ハイキングコースは山の反対側に続いていた。特に引き返す理由もないので、僕は反対側を下った。上った時よりも距離が長かったせいでコースを抜けるころには日が傾きかけて、あたりを赤く染めていた。久々に舗装された道を歩く心地よさを感じながら僕は歩いた。昼食も食べずに半日近く歩いたわけで、文化部(?)に所属している僕の足はすでにがくがくだった。まだリセットのあてもついていないのにこのままではいけない。特に腹が減っているのはその中でも災厄だった。せめて今日の夕食ぐらいはコンビニの食事以外にしたい。といってもそのコンビニ自体が見当たらないし、車一台だって見かけない。僕はひとりで赤く染まる道を歩いて行った。

 どれくらい歩いただろうか、日が沈んですぐの頃、ぼくは久しぶりに1つの明かりを見つけた。街灯の無機質な色ではなく、人の温かさを持つ明かりだ。さらに都合の良いことにそこは定食屋だった。店の入り口には青い暖簾が欠けてあり、中からは何人かの人が話す声が聞こえる。中に入るとそこには70歳ぐらいのおばあさんが一人ちいさなテレビを見ていた。どうやら先程話し声だと思っていたのはこのテレビから発せられたものらしい。

「ん?見かけない顔だね。ってことはお客さんかい?」

僕がうなずくとおばあさんはとても踊り多様で目を丸くする。

「はあー、珍しいもんだね。まあ簡単なものしか出せないけど適当に座んな。今日は親子丼くらいしか出せないけど構わないかい?」

そういいながらもすでにお茶を入れたり、どんぶりを出して来たりしていた。僕がうなずくと1分もしないうちに湯気を上げるどんぶりがドンと置かれる。

「ここも辺鄙なところだから普段は村の人しか使わないんだ江戸ね。あんたみたいな若いのが来るなんて珍しいんだよ。今日は他の客もいないしサービスしてあげるからたくさん食べな。」

僕は言われるがままに流し込むように親子丼を食べた。これまでが冷たいコンビニ弁当やおにぎりの類だったので胃にしみるようにおいしかった。

食事はたった10分ほどで終わってしまった。僕はお礼を言ってお金を払うとさっさと席を立った。ほんの少しの間にあたりは真っ暗になっていた。目が慣れてきたならば満天の星空も眺めることが出来るだろう。風のないあたたかな夜だ。僕は店から少し離れたところにあるというバス停を目指した。今日はそこで夜を明かそう。そう決めていた。


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