雨の夜に
誰かを呼ぶ声がする。でもそれはけして僕の事ではないのだろうと思っていた。赤い傘を差した少女とすれ違った後のことだ。僕がそのまま歩いて階段を降りようとしていると再び声がかけられる。そこでようやくそれが僕にむけられたものだと分かり振り返る。眼鏡についた水滴を指でぬぐう。さっきよりも鮮明に少女の姿が僕の目に入って来た。そのとたんさっきまで感じていなかった寒さや濡れてしまった服の重さ等がやってくる。少女は僕が振り返ったのを見てとてもうれしそうに笑った。僕はそんな笑顔を見たのはいつ以来だろうか。心の底から楽しそうだと思えるほどその少女の笑顔はまぶしかった。
誰かに『リセット』について話そうと思った事はない。そもそも『リセット』なんて僕自身も知らなかった。インターネットを目的もなくさまよっていたときに偶然目に入った。なんて検索したかも覚えていないし誰が書いているかも分からない。装飾も写真もない白い背景に黒い文字が延々と書かれていた。それによれば『リセット』を行う事ができるのならば人生をやり直すことが出来るらしい。ゲームやデジタル時計についている小さなボタンと同じ働きをするらしい。やり直したところでうまくいくかどうかは分からないがかつての自分よりはうまくやれるだろう。
少女は何をしているのかと僕に尋ねた。だから僕はただ『リセット』をするんだ。と簡単に答えた。
少年は見知らぬ私の突然の質問に答えた。
『リセット』。私も聞いた事がある。やり直しができるというごく浅い部分しか知らないがその行為が死ぬということであるかは知っていた。そしてそれを迷うことなく躊躇うこと無く言えた少年をただかっこいいと思った。私は流されるままに生きているので彼のように生きる事も出来ない。雨が好きだからと言ったが、本当は雨が降ったから外に出かけているのかもしれない。私にとって少年は真反対に居るような気がした。私は振り返った少年を見てさらに声をかける。
「ねえ、どこか行くあてでもあるの?」
「いや、そんなものはないけど。」
「じゃあ、うち来る?」
「は?」
は?私自身も自分の口から出てきた言葉に驚いてしまう。どういう流れになったらこうなるのだろうか。失言というレベルではない気がした。雨の中永遠にも感じられるほどの長い時間が過ぎていく。
少女は思わぬことを口にした。確かに僕に行くあてはなかったしホテル等に泊まる気も無かった。どこか雨をしのげる橋の下にでも行くつもりだったのだが。いくら僕が『リセット』なんてばかげたことを考えていても常識くらいは持っているつもりだ。ここは丁寧に断ろうと考えていた。そもそもこんな雨の中傘もささずに歩いている人に声を掛け家に誘うなんて僕に劣らずあちらも相当な変わり種だ。よし。俺は心の中でいろいろと折り合いをつけて結局彼女の誘いを受け入れることにした。どうせなら床でもいいから暖かい部屋で寝たかった。『リセット』をするには万全の体調の方がいいと書いてあったし。自分に言い訳をしながらたった3分ほどで結論を出す。
それじゃあお願いします。僕は
そう答えた。
「本当にいいんですよね。」
少年は私に尋ねる。どうせ今日は母親はあの男の下に行っていて帰って来ない。家には私一人だし何にも困らない。
「もちろん。こっちです。」
そう言って私はもと来た道を引き返す。少年はその後をあわてて追いかけてきた。