きっと
「ご飯食べる?」
母の声はこんなだったかなとドキリとした。
「後でもらう。風呂入ってくる」
浴室に向かう私の背中を視線が刺す。
「ねえ。由希子。」
「なに?」
振り返り見た母の顔がいつになく真剣で。
「お母さん しばらく家出しようかな」
言葉の意味が飲み込めない。
「嫌な事でもあった?」
「そうじゃないけど」
母は堅実な生き方を好んだ。時計の針が規則正しく周期を刻むように。
「どうして?」
母の眉毛は左右で微妙にずれていた。
「うん。なんていうかね。少しぐらい綱渡りしてみてもいいかなって」
「綱渡り?」
「母さんさ ずっとここに居て。同じ事の繰り返しでさ。それを幸せだって思っていた。」
毎日見ているはずなのに 今私の前にいるこの人はこんなに枯れていただろうか。
「ならどうして?」
私は答えの分からないじれったさに苛立ちを感じた。
「由希子は 母さんがいなくなったら困る?」
「困るよ」
「どうして?」
「だって・・・・・・それは・・・家のこととか」
瞬間 母の真意が見えた私は言葉を噤んだ。
「母さんね。この生活そのものが嫌になっちゃった。」
初めて母に違和感を覚えた。こうして世界は変わるのだろうと 勝手に決めつけている。縛られていた規則を破ってしまった時のような 解放感と罪悪感。
「・・・・・・どこ行くの?」
肯定とも否定ともつかない問い。
「・・・・・・さあ・・・・どこかな?」
まだ小学生だった私も家でを試みた事がある。自転車で町中うろうろしていたら 見覚えのある車が近寄って来て 泣きながら母が飛び出してきた。思わずもらい泣きした私の頭を撫でた母。
「そうか・・・・」
母は少し強い口調で言う。
「・・・・・じゃあ 本当に行くよ」
困る。それは困る。置いて行かれたら どうなるのだろう。
「帰ってくるの?」
「さあ・・・・」
どうしてこんな意地悪をするのだろう。母はもっと優しかったはずだ。もっと・・・・。
「・・・・・・私に聞かれても分からないよ」
大きな目を一層見開いて 母は私の心を見ている。
「母さんは必要?」
「うん」
「いなくなったら困る?」
「うん」
「ここにいて欲しい?」
「うん」
母は決して言わなかった。しかし私はこの問答で理解した。
母は自分を見て欲しかったのだと。「母」ではない自分を必要として欲しかったのだと。
これは一種の脅しでもあります。優位性を理解しているからこそできる脅迫。
子供からすれば恐怖です。
しかし 教育云々の観点ではなく 一人の人として見たら とても悲しくなります。
当たり前だと思っていませんか?親が子供を守るのは。