【第一章】五体目の式神 ①契約の儀
よりコメディにしました
月蝕の夜だった。
土御門家本邸の地下には、一般人はおろか並の陰陽師でさえ立ち入れない儀式場がある。天然の霊脈の真上に掘り抜かれた石畳の大広間。壁面には千年前から変わらぬ封印紋が刻まれ、床には七重の結界陣が白銀の光を放っている。
厳かだった。荘厳だった。千年の歴史を背負う土御門家が代々受け継いできた、聖域中の聖域──
「──また女か。暁人、お前は式神をナンパで集めているのか?」
のはずなのだが、厳かさも荘厳さも、四体の式神が五秒で粉砕していた。
焔姫。真紅の角を持つ鬼の女武者。俺の第一式神にして、自称「前世の正妻」。今は人間態で腕を組み、儀式陣の北東に控えている。控えているというか、陣の中央で待機する俺を苛立たしげに睨んでいる。周囲の空気が陽炎みたいに揺れているのは、怒りで無意識に炎を垂れ流しているからだ。
「霊的契約です」
俺──土御門暁人は、もう何回目かわからない訂正をした。
「霊的だろうがなんだろうが、また女だろう。五体目だぞ五体目。しかも全員女。偶然にしては出来すぎではないか?」
「式神の性別は俺が選んでるわけじゃない」
「前世のお前が選んだんだ。結果は同じだ」
「前世の記憶がないって何回言えば──」
「百回聞いた。百一回目も信じない」
論破不可能。焔姫との議論は常にこうだ。彼女の中では「暁人の前世=浮気性のクソ野郎」という結論がすでに確定しており、証拠も反論も受け付けない。最高裁でも覆らない。儀式場の南西、石柱の陰からくすくすと笑い声が漏れた。
「あら、賑やかになりますわね」
氷雨。白い肌に氷の結晶が散る雪女。第二式神。自称「前世の側室」。柱に背を預け、扇子で口元を隠して微笑んでいる。上品で優雅で、見た目だけなら深窓の令嬢そのものだ。見た目だけなら。
「もう一人"元カノ"が増えるのかしら。ふふ」
周囲の気温が三度下がった。物理的に。氷雨の笑顔は常にこうだ。口元は微笑んでいるのに、目の奥だけが北極海。感情のサーモグラフィーがあったら、きっと彼女の周辺だけ真っ青に映る。
「氷雨、結界陣の温度を下げないでくれ。儀式に影響が出る」
「あら、ごめんなさい。つい」
「つい、でマイナス三度にするな」
「暁人さんの浮気性がもう少し穏やかでしたら、私の冷気も穏やかですのに」
「浮気してない」
「前世では?」
「記憶がない」
「便利な記憶喪失ですわね。ふふ」
目が笑っていなかった。氷雨の「ふふ」は、この世で最も温度の低い笑い声だと俺は確信している。
「暁人ーーー! がんばれーーー!」
儀式場の西側から、やたら元気のいい声が飛んできた。
風花。黒い翼を持つ天狗の娘。第三式神。自称「前世の婚約者」。本来は結界の外で待機するはずなのに、結界のギリギリまで身を乗り出して手を振っている。結界に触れるたびにバチバチと弾かれているが、全く気にしていない。
「でも新しいの可愛かったら許さないからなー!」
「応援なのか脅迫なのかハッキリしろ」
「応援に決まってんだろ! ──ただし新しい式神が暁人に色目使ったら空の彼方まで吹き飛ばす!」
「後半が完全に脅迫だ」
風花はケラケラ笑った。彼女の距離感は常にバグっている。物理的にも精神的にも。他の式神からは「距離感バグ」と呼ばれており、本人はそれを褒め言葉だと思っている。違う。
そして──儀式場の東側。壁にもたれて、こちらを見ていないフリをしている小柄な影が一つ。
雷鈴。猫耳と尻尾を持つ雷獣の少女。第四式神。自称「前世の……その……べ、別になんでもない」。腕を組んで壁にもたれ、顔をそっぽに向けている。典型的な「興味ないですけど」のポーズだ。ただし。
「べ、別に興味ないし。勝手にすれば」
猫耳が儀式陣の方向に全力で傾いていた。耳は正直だった。あと尻尾も。ぴんぴんと忙しなく揺れている。雷鈴の感情はいつも耳と尻尾に裏切られる。本人はそのことに気づいているが、制御できないらしい。人体の──いや妖体の不条理である。
「雷鈴、お前の耳が答え合わせしてるぞ」
「してないし! 耳は関係ないし! ──っていうか見るな! 耳を見るな!」
バチッ、と小さな放電。天井の照明が一瞬チカチカした。
これが、俺の式神たちだ。土御門家が誇る五──いや現時点では四体の式神。全員が前世の恋人を名乗り、全員が俺を巡って争い、全員がこの神聖な儀式場の空気を台無しにしている。
頼むから、五体目はまともであってくれ。そんな願いを込めて、俺は深呼吸した。月蝕の光が天窓から差し込み、七重の結界陣を照らしている。両手を結界陣の中央に翳す。霊力を集中させる。ここからは真剣だ。式神の召喚契約は、陰陽師にとって命を懸ける儀式でもある。相手の真名を唱え、魂と魂で繋がる。失敗すれば、最悪の場合──
「暁人ー! 新しいの巨乳だったら承知しないからなー!」
集中が途切れた。
「風花ぁぁぁ! 黙っててくれ一分でいいから!」
深呼吸。やり直し。集中。霊力。結界陣。月蝕の光。大丈夫だ。できる。俺は真名を唱えた。
「顕現せよ──その真名は"月詠"。千年の眠りより覚めて、我が声に応えよ」
結界陣が白く、月光のように白く輝いた。光の柱が天井を突き抜け、儀式場全体が揺れる。四体の式神が固唾を飲んだ。焔姫の炎が消え、氷雨の冷気が止まり、風花が翼を畳み、雷鈴の放電が収まった。全員が沈黙する。さすがに、この瞬間だけは。
光の中に、影が生まれた。優美な輪郭。長い髪。そして九本の尾。金色の狐火が周囲を漂い、圧倒的な妖力が波のように儀式場を満たしていく。四体の式神が同時に息を呑んだ。焔姫ですら、一瞬、目を見張った。
格が違う。そう感じるほどの存在感だった。光が収束し、一人の女が姿を現した。長い黒髪に金の瞳。白い着物に九本の尾。整った顔立ちに、すべてを包み込むような穏やかな笑み。九尾の狐──月詠。
彼女はゆっくりと目を開き、俺を見た。
一瞬の、沈黙。
儀式場の全員が固唾を飲む。千年の時を超えた再会。陰陽師と式神の、運命の──
月詠がにっこりと微笑んだ。
「──あなた♡」
…………は?
「え?」
「久しぶりねぇ。何度目の再会かしら」
月詠が光の中からすたすたと歩み寄ってきた。儀式の余韻も荘厳さも完全に無視して、まるで近所のスーパーで知り合いに会ったみたいなテンションで。
そして、両手で俺の頬を包んだ。柔らかい。温かい。そしてめちゃくちゃ近い。
「あなた、相変わらずいい男。あら、でもちょっと痩せた? ちゃんと食べてる? 朝ごはんは? 野菜食べてる? 夜更かししてない?」
「あ、あの、すみません、初対面なんですけど──」
「初対面? あらあら、今世ではそうなるのかしら。ふふ、照れなくていいのよ」
照れてない。困惑している。しかし月詠の言葉が途切れる前に、儀式場の気温が急激に変動した。
北東から灼熱。
南西から極寒。
西から暴風。
東から電撃。
四つの殺気が同時に放たれた。
「──手を離せ」
焔姫の声は、溶鉱炉の底から響くようだった。炎が噴き上がる。石畳の隙間から赤い光が走る。
「今すぐにだ。三秒以内に。三……二……」
「カウントが早い」と俺は突っ込んだが、焔姫の耳には入っていなかった。
「あらあら、初対面で随分と馴れ馴れしくありませんこと?」
氷雨が柱の陰から歩み出た。扇子を閉じ、微笑んだまま。いつもの笑顔だが、周囲の石柱に霜が這い上がっている。気温がさらに五度下がった。
「あら……"初対面"じゃないんですの? 暁人さん、この方とはどういうご関係で?」
「いや、俺も今初めて──」
「両手で頬を包まれて"あなた♡"と呼ばれる初対面があるんですの? 斬新ですわね。──斬り捨てていいかしら?」
西から突風が吹き荒れた。
「おい暁人! この女誰だよ! 聞いてないぞ!」
風花が結界を無理やり突破して飛び込んできた。翼が全開。目がぎらついている。
「つーか何で手慣れた感じで頬触ってんだよ! 初対面で頬触る女なんかいるか!? どういう育ちだ!?」
「風花、落ち着け──」
「落ち着いてる! めちゃくちゃ冷静! ただ事実を確認してるだけ!」
「翼が逆立ってる時点で冷静じゃない」
東から無音。しかし空気が帯電している。
雷鈴が壁から離れ、こちらを見ていた。猫耳が完全に逆立ち。尻尾が膨らんで通常の三倍のサイズになっている。一言も発していないが、全身から「許さない」というオーラが放射されている。
バチッ。バチバチバチッ。
雷鈴の周囲で紫電が弾けた。
「雷鈴?」
「…………」
「落ち着いて──」
「…………(帯電量増加)」
「怖い。無言が一番怖い」
四方向から殺気。一方向から告白(?)。俺は完全に包囲されていた。だが月詠は──四体分の殺気を涼しい顔で受け流していた。九本の尾が優雅に揺れ、金色の瞳が柔らかく細められている。鬼の炎も雪女の冷気も天狗の暴風も雷獣の電撃も、彼女にとってはそよ風程度らしい。月詠は俺から手を離し、四体に向き直って一礼した。
「はじめまして、皆さん。私は月詠。暁人さんの──」
全員が耳をそばだてる。空気が張り詰める。
「──あ・な・た♡ よろしくね」
時間が止まった。三秒間の完全な静寂。そして──
『『『『──────は?』』』』
四つの声が完璧にハモった。普段は何一つ息が合わないくせに、こういう時だけ完璧なユニゾンを披露する。
「「「「今なんつった?」」」」
「"あなた"。だって前世では夫婦でしたもの」
月詠はにっこりと言い放った。爆弾を投げるように。儀式場が揺れた。比喩ではなく、物理的に。
「夫婦!?」
焔姫が叫んだ。炎が天井まで噴き上がる。
「待て。私が正妻だ。正妻は一人だ。つまりこの女が言っている"夫婦"は無効だ。法的にも霊的にも無効だ」
「あら、前世の話に法律を持ち出しますの? さっき"法的拘束力"を否定したのは焔姫さんでしたのに」
氷雨が横から刺した。焔姫が氷雨を睨む。
「黙れ雪女! 今はお前との話ではない!」
「あら、私も前世では妻でしたけれど。序列で言えば側室ですけれど、妻は妻ですわ」
「側室が正妻に意見するな!」
「前世の身分制度を現代に持ち込むのは品がなくてよ」
「品の話をするなと言っている!」
風花が割り込んだ。
「俺だって婚約者だったし! 婚約者は未来の妻だろ! つまり実質妻!」
「実質で良いなら全員妻だろうが!」
「じゃあ全員妻でいいじゃん!」
「良いわけがない!!」
三人の怒号が儀式場にこだまする。炎と氷と暴風が入り混じり、石畳の上で属性がぶつかり合って蒸気が立ち昇る。千年の歴史を誇る儀式場が、即席のサウナと化していた。その喧騒の中で。小さな、しかしはっきりした声が聞こえた。
「あ、あたしは……その……」
雷鈴だった。三人の怒号が一瞬やんだ。全員が雷鈴を見る。
「……(ボソッ)片想い……」
沈黙。
「「「「…………」」」」
妙に重い空気が流れた。焔姫も氷雨も風花も、なぜか雷鈴だけには強く出られない。片想いというワードが持つ圧倒的な健気さの前に、正妻も側室も婚約者も沈黙せざるを得なかった。五秒間の静寂。雷鈴の顔がみるみる赤くなっていく。猫耳が真横に倒れた。恥ずかしさの限界値を超えたサインだ。
「今の聞いてないでしょうね!?」
大放電。紫色の雷光が儀式場全体を走り抜けた。結界陣にヒビが入る。天井から砂がパラパラと落ちてくる。壁面の封印紋が火花を散らす。
「結界ぃぃぃ!」
俺は叫んだ。
「結界の修繕見積もり二百万って言われたんだぞぉぉぉ! 俺のお小遣い三年分! ローンが! ローンが組めない!」
式神たちは俺の悲鳴など聞いていなかった。焔姫の炎、氷雨の冷気、風花の暴風、雷鈴の電撃が儀式場の中で渦巻き、月詠だけがその中心で涼しい顔をしている。
「あらあら、今世も賑やかねぇ」
月詠は微笑んだ。九尾が優雅に揺れる。まるで嵐の中の灯台みたいに、この人だけが完全に平然としていた。
「──よろしくね、あ・な・た♡」
四体の殺気が更に倍増した。
遠く離れた場所──儀式場の入口近く。一人の老人が、座布団に座って茶を啜っていた。俺の祖父、土御門弥幸。八十歳。土御門家の現当主にして、陰陽師界のレジェンド。歴代最高と謳われた結界術の使い手であり、あらゆる禍津神を退けてきた伝説の男。
「ほっほっほ。若いのう」
が、今は完全に観客だった。
「わしの若い頃は七股だった」
「嘘だろ」
「嘘じゃ。じゃが楽しかろう?」
「楽しくない!!」
じいちゃんは湯呑みに口をつけながら、崩壊しかけた結界を片手間で修復していた。指先一つで七重の結界陣を再構築する技術は、さすが伝説の陰陽師と言わざるを得ない。ただし、その技術を孫の修羅場の観戦に使うのはどうかと思う。
「じいちゃん、止めてくれよ」
「なんでじゃ。面白いのに」
「面白くない。結界が壊れる」
「結界はわしが直す。お前は若さを楽しめ」
「この状況のどこに楽しさが!?」
じいちゃんはニヤニヤしたまま茶を啜った。結界の修繕費二百万円が、俺の財布ではなくじいちゃんの技術で解決されたことだけが、今夜唯一の救いだった。




