【プロローグ】千年前の修羅場
よりコメディにしました
夢を見ている。たぶん、夢だ。根拠はない。ただ、こういう訳のわからない状況は夢の中でしか起こらないだろうという、長年の経験に基づく推測だった。
荒野だった。見渡す限りの枯れた草原。空には異様にデカい月がかかっていて、地上の一切を銀色に染め上げている。風はない。虫の声もない。時代がいつなのかもわからない。ただ、やけにドラマチックな背景だけが完璧に整っていた。舞台装置だけ一流で、役者が誰もいない劇場。いや。一人、いた。
俺の前に、女が立っている。長い黒髪が月光に透けて、夜空に溶けるように揺れていた。顔は見えない。逆光か、あるいはこの夢の解像度がそこだけ足りていないのか。ただ、白い頬を伝う涙の筋だけが、やけにくっきりと光っている。彼女は俺を──正確には、「俺の中にいる誰か」をまっすぐに見つめていた。そして、震える声で言った。
「あなたは、私を選ばないのね」
重い。声に込められた感情の質量が、物理的に胸を圧迫するほど重い。千年分の恋慕と絶望を煮詰めて言葉にしたら、きっとこんな響きになるのだろう。これは間違いなく、物語のクライマックスだ。泣ける。感動する。映画なら全米が泣く。
俺の口が、勝手に開いた。前世の記憶か、それとも脚本に書かれた台詞か。どちらにせよ、この場面に相応しい、運命的で切なくて美しい言葉が紡がれるはずだった。はずだったのだが。
「ちょ──っと待ちなさい」
背後から、地を揺るがすような声が割り込んだ。
振り向く。いつの間にか、荒野のど真ん中に一人の女が仁王立ちしていた。真紅の角が月光を弾き、全身から陽炎のような熱気が立ち昇っている。鬼だ。美しいが、その美しさは日本刀の美しさに近い。鞘から抜けば誰かが斬られる類の。
「"選ばない"って何? 私が正妻よ? 正妻。わかる? 序列一位。最上位。トップ・オブ・トップ。あなたがどこの馬の骨かは知らないけれど、私より先にこの男の前に立つ権利は」
「はいはい、また始まった」
別の方向から、今度は凍てつくような声。振り向くと白い着物の女が立っていた。肌も髪も雪のように白く、周囲の空気が目に見えて結晶化している。唇だけが薄紅色で、そこに浮かぶ笑みが致命的に冷たい。
「正妻マウント、今世でも健在なのね。安心しましたわ。……ちなみに私、前世では側室でしたの。ふふ、側室。響きだけは優雅でしょう?」
「お前は黙っていろ! 今この女と」
「あーーー待って待って待って!」
上空から突風。黒い翼を広げた女が、滑空して荒野に着地した。ボーイッシュな顔立ちに快活な笑み。しかし目だけは笑っていない。
「ちょっと、なんで皆こっそり集合してんの? 俺だけハブ? それ契約違反じゃない? 婚約者が序列何位かは知らないけどさ、最低でも呼ぶくらいしてくれない?」
「婚約者ですって?」と角の鬼。
「あら、婚約者?」と雪の女。
「そうだよ! 正式に婚約してた! 指輪はないけど口約束はあった!」
「口約束は法的拘束力がないわよ」
「鬼が法律を語るな!」
もう完全にクライマックスは吹き飛んでいた。月下の荒野で三人の女が腕を組んで睨み合っている。風景は相変わらず幻想的なのに、空気は完全に居酒屋の終電後である。
「…………」
そして。荒野の隅。岩の陰に、小柄な影が一つ。猫のような耳と、ふさふさの尻尾。少女は膝を抱えてうずくまり、三人の修羅場を横目で見ながら小声でぼそりと呟いた。
「……べ、別にあたしは関係ないし。ただの片想いだし。順番とか関係ないし」
片想い。この場にいる時点でだいぶ関係あるのでは、と俺の中の冷静な部分が突っ込んだ。
「あらあら」
最後に聞こえたのは、春風のように穏やかな声だった。いつの間にか、荒野の中央に一人の女が佇んでいる。九本の尻尾が月光を受けて金色に輝いていた。整った顔立ちに、すべてを包み込むような笑み。聖母か。菩薩か。
「皆さん、落ち着きましょう? こんな素敵な月夜に喧嘩なんて、もったいないわ」
おお、と思った。ようやくまともな仲裁者が現れた。この人がいれば場が収まるかもしれない。
「それに」
九尾の女は、にっこりと微笑んだ。
「最後にこの人が帰ってくるのは、私のところですもの。慌てる必要はないわ」
「は?」
「はぁ?」
「はあ!?」
「……はぁ(小声)」
仲裁者じゃなかった。四人目の修羅場要員だった。荒野が、一瞬で地獄に変わった。炎が噴き上がり、氷柱が突き立ち、暴風が渦を巻き、雷が走り、金色の狐火が空中を乱舞する。五人の女が荒野のど真ん中で、月光を背景に、人類史上最も美しく最も物騒な取っ組み合いを始めた。
「正妻は私だと何度言えばわかる!」
「前世の話をいつまでも引きずるのは品がなくてよ」
「うるさい! 実力で決めようぜ実力で!」
「あたしは別に参加してないし! してないし!(雷を撃ちながら)」
「あらあら、元気ねぇ(狐火で全員を牽制しながら)」
「黙って!」
最初の女、月下の涙の女が五人に向かって叫んだ。
「今いいところだったの! 千年越しの告白シーンだったの! "あなたは私を選ばないのね"って、すっごい練習したの! 鏡の前で三時間! それなのに」
「三時間!?」
「練習してたの!?」
「千年かけて練習三時間は短くない?」
「……その努力は認める(小声)」
「あらあら、健気ねぇ」
「褒めてないで帰って! 全員帰って! 私のシーンを返して!」
俺はその光景を、呆然と眺めていた。月光。荒野。六人の女。絵面だけなら神話の一場面だが、やっていることは町内会の隣人トラブルよりも低レベルだった。そして、ようやく理解した。
ああ、そうか。これ。前世でも、修羅場だったんだ。千年前も。たぶん、その前も。そしておそらく今世でも。
俺の魂は、どうやら生まれ変わるたびに女性関係のトラブルを量産する呪いにでもかかっているらしい。前世の俺に文句を言いたいが、前世の俺も前々世の俺に同じことを思っていたのかもしれない。因果の無限ループ。輪廻転生ガチャの大ハズレ。
「お前のせいだぞ」
六人の女が、全員同時にこっちを振り向いた。十二個の目が、月明かりの中で俺を射抜く。怒り、悲しみ、嫉妬、独占欲、片想いの痛み、そして深すぎる愛情。六種類の感情が、六方向から同時に突き刺さる。
いや、俺に言われても困る。だって前世の記憶なんかないんだ。俺に聞くな。俺は知らない。前世の俺がどういう経緯で六人の女と修羅場をやらかしたのか、現世の俺には一ミリも
「あなた、聞いてる?」
「おい、逃げるなよ」
「暁人さん?」
「こっち向きなさいよ!」
「ねぇ、答えてよ」
「逃がさないわよ?(笑顔)」
暗転。
目が覚めた。天井が見える。見慣れた自室の天井。汗だくだった。心臓がバクバクいっている。夢だ。やっぱり夢だった。わかってた。こんな理不尽な状況、夢以外にありえない。安堵のため息をつきかけた、その時。
「暁人。うなされていたぞ。何の夢だ」
右を見る。焔姫がいた。腕を組んで、枕元に正座している。真紅の角が暗がりでぼんやり光っている。
「あら、暁人さん。汗びっしょりですわね。拭いてあげましょうか?」
左を見る。氷雨がいた。冷たいタオルを手に、にっこり微笑んでいる。目が笑っていない。
「暁人ー、大丈夫? 水持ってきたよ!」
足元を見る。風花がいた。窓から入ってきたらしく、カーテンが揺れている。
「べ、別に心配して来たわけじゃないし。……寝言がうるさかったから見に来ただけ」
部屋の隅を見る。雷鈴がいた。猫耳がぴんと立ち、尻尾が不安そうに揺れている。
「おはよう、あなた♡ 朝ごはん、もうできてるわよ?」
廊下から声が聞こえる。月詠だった。味噌汁の匂いが漂ってくる。五体の式神。全員、元カノ(自称)。俺は布団を頭から被り、今世で三百七十二回目の絶叫を上げた。
「……頼むから俺の前世のことは俺に聞かないでくれぇぇぇぇ!!」
返事は五方向から同時に返ってきた。
「「「「「聞いてない(聞いてませんわ/聞いてないし/聞いてないよ/聞いてないわよ♡)」」」」」
こうして。土御門暁人、十八歳の朝は、今日も修羅場とともに始まる。千年前から続く、宇宙的に不公平な因果の最新エピソードが。
これは、式神が全員"元カノ"だった陰陽師の、笑えて泣ける(主に本人が泣いている)物語である。




