追放の日
「やめてください。お願いですから、これ以上、私から大切なものを奪わないで……っ」
喉の奥まで出かかった悲痛な叫びは、放たれる前に、容赦なく叩きつけられた物理的な衝撃によって無残に掻き消された。
「……っ!」
視界が火花を散らすように激しく揺れ、次の瞬間には、冷たく硬い石畳の感触が左頬に伝わった。突き飛ばされたのだと理解するのに、数秒の空白を要した。地面を転がる大切な指輪を必死に両手で掴む。お気に入りだったドレス(コット)の裾が跳ねた泥に汚れ、地面に突いた掌には鋭く細かい砂利が食い込む。じりじりと熱を持って滲む痛みさえ、目の前に立つ男性が全身から放つ、刺すような冷気に比べれば、取るに足らないものだった。
「何が『やめてください』だ。それはこちらのセリフだ」
頭上から降り注ぐのは、感情を削ぎ落とした氷のように冷徹な声。
重い瞼を押し上げれば、そこにはアライアスの面影を端正な輪郭に微かに残した、しかし決定的に慈悲を欠いた貴族が立っていた。アライアスの実父であり、この広大な領地を統べる伯爵。権力の頂に立つ彼にとって、私のような土にまみれた平民の娘は、道端に転がる石ころか、あるいは磨き上げられた靴の裏に付いた泥程度の価値しかないのだろう。
「これ以上、私の息子に付きまとわないでもらいたい」
心臓を直接冷たい鉄の拳で掴まれたような衝撃が走り、呼吸が止まる。私は、震える声を枯れた喉から絞り出した。
「付きまとってなんて……っ。彼と、私は、ただ……心から……」
「よせ、よせ。聞き苦しい」
伯爵は心底不快そうに眉根を寄せ、顔を歪めると、汚い羽虫を払うかのように扇を広げる動作で手を振った。
「お前は卑しい平民で、私の息子は次代を担う高貴な貴族だ。一体、その差のどこが釣り合うというのだ? 分不相応という言葉を知らぬのか。ん?」
「それは……」
言葉が詰まった。身分の差。それは、この国において生まれた瞬間に魂に刻印される、絶対的な真理だった。彼と過ごした、あの黄金色の陽光が降り注ぐ花の高原での柔らかな時間も、銀の月明かりの下で永遠を誓い合った囁きも、この伯爵の前では何の価値もない。ただの「間違い」として無慈悲に処理されていく。
「まったく……。お前のような平民の汚い血が、我が一族に混じるなど、想像しただけでもおぞましい。生理的な嫌悪感を覚えるよ。今後一切、私の息子の前に姿を現すな」
おぞましい。吐き捨てられたその一言が、私の胸の中央に鋭利な楔となって打ち込まれた。
私たちが愛し合った尊い時間は、彼らのような「選ばれた人間」にとっては、ただの汚染でしかないというのか。
「そんな……。ひ、ひどい……」
「いいか。よく聞きなさい」
伯爵は一段と声を低め、這いずるような威圧感を持って、地面に伏せる私の目の前に顔を寄せた。
「息子には、輝かしい未来がある。家門の誇りを守り、国の中枢を支える重責だ。そのために彼は、望まぬ政略結婚も、血の滲むような日々の努力もすべて受け入れているんだ。それを……君は自分の浅ましい身勝手な欲のために、台無しにしてもいいと思うのか? 本当に愛しているなら、泥を塗る前に身を引くのが筋だろう。ん? どうなんだ? えっ!」
最後の一喝、怒号に近い鋭い問いかけに、私の肩は大きく跳ねた。
アライアスの未来。
私が彼の側にしがみつくことで、彼がすべてを失う。彼が守ろうとしている一族の誇りも、積み上げてきた絶え間ない努力も、私という卑小な存在一つで瓦解してしまう。
それは、私にとって死よりも耐え難い恐怖だった。
「……ぐすん……っ。お、思いません……。彼の、邪魔をしたいなんて、そんなこと……」
「そうだろう。聞き分けが良くて助かるよ」
伯爵の声に、獲物を仕留めた猟師のようなわずかな満足の色が混じる。彼は上着の懐から重厚な革の袋を取り出し、私の目の前、泥の浮いた地面に投げ捨てた。ドサリと、重苦しい金属音が耳に障る。
「ほら、金だ。これだけあれば、当分の間、生活には困らんだろう。さあ、もう手配は済ませてある。息子が公務から帰ってくる前に、あそこの馬車に早く乗りなさい。それと二度と、この地の土を踏まぬと誓ってな」
伯爵が促す視線の先、路地の入り口には一台の窓の小さい、無骨な馬車が停まっていた。
その背後には、抜き身の剣こそ帯びていないものの、熊のように屈強な私兵たちが数人、逃げ道を塞ぐ彫像のように無表情に立っている。私に、逃げ場など最初から用意されていなかった。
カタ……。
一人の私兵が、威圧するように一歩前に踏み出す。その長く伸びた影が、地面に這いつくばる私を無慈悲に飲み込んでいく。
「……はい」
私は、感覚の薄れた震える指先で、泥まみれになった革袋を拾い上げた。ずしりと腕に響くその重み。中には、平民が一生かかっても拝むことのない、冷たく光る黄金の輝きが数枚。これが、私の捧げた愛の対価。
彼と過ごした、何にも代えがたい宝石のような思い出を、無理やりこの金に換金させられたような屈辱が、全身の血を逆流させる。
「もう会うことはないだろうが、道中気を付けてな。せいぜい、身の程を知った人生を送れ」
伯爵の冷ややかな背中を最後に、私は私兵たちの手によって引きずられるようにして、狭い馬車の中へと押し込められた。
重い扉が閉まる。
ガタゴトと車輪が動き出し、アライアスのいる場所から、私を無情に引き剥がしていく。
窓の外に流れる、住み慣れたはずの街並みを見つめながら、私は声にならぬ声で、何度も彼の名前を呼んだ。
私たちの愛が、決して実ることはない。
残酷なほど理解していたはずなのに、頬を伝う涙は、いつまでも止まることを知らなかった。




