第5章:それぞれの選択
1
美咲が健一のマンションに引っ越してきてから、約五ヶ月が経過した。
その間に、いくつかの大きな変化があった。
美咲の離婚は、健一が雇った弁護士の鉄壁なロジックと元夫のコンプライアンスリスクへの言及により、美咲側の有利な条件でスピード解決した。慰謝料は期待通り全額は回収できなかったが、美咲は生活再建のために、健一の指示に従い、正社員として再就職を果たした。健一のデータ入力の雑務は、新しい職場での残業により自然消滅した。
実家のリフォームも、健一が厳選した業者により着工した。雨漏りの修繕だけでなく、親父の生活導線に配慮したバリアフリー化も進められ、親父も母も明るさを取り戻しつつあった。
健一の「投資」は、順調に成果を出し始めていた。だが、この成果は、彼の**「趣味の城」**を完全に変質させていた。
「おじちゃん! 今日、泥んこだよ!」
週末、健一の趣味部屋B(フィギュア部屋)の隣にある「ゲストルーム兼陽菜の部屋」から、陽菜が保育園でつけた土の汚れを服につけたまま、リビングに飛び込んできた。
健一は、反射的に床の無垢材を気にしたが、すぐに諦めた。どうせ美咲が後で完璧に拭き取る。
「泥んこは、アウトドアの勲章だ。だが、部屋に入る前には泥を払うという基本ルールを忘れるな」
健一は、陽菜の頭をポンと叩いた。陽菜はすぐに「ハイ!」と返事をして、玄関に向かった。
もはや、健一は自分の独身生活がどうなっていたか、思い出せなかった。早朝のコーヒーは、自分だけではなく美咲の分も淹れるようになった。新作ゲームは、美咲が「陽菜が起きる前に終わらせてね」と声をかけてくるため、深夜のプレイは短時間で切り上げる癖がついた。
「あれ? 健一さん、今日は焚き火のメンテナンスですか?」
マンションのエントランスで、健一が玄関から運び出してきたコールマンのランタンを磨いていると、マンションの管理人が声をかけてきた。
「ああ。来週、美咲たちとキャンプに行くことになったんでな。道具は常に最高の状態を維持するのが、リスク管理の基本だ」
「ご家族とキャンプなんて、素敵ですね!」
健一は「家族」という言葉に、一瞬言葉を詰まらせた。
2
週末、陽菜の寝かしつけを終えた美咲が、リビングで缶ビールを片手に健一の隣に座った。
「お兄ちゃん、相談があるの」
「なんだ。また元夫か?」
「違う違う。もう、あの人のことでお兄ちゃんに迷惑はかけないよ。弁護士費用も、ちゃんと計算して返済計画に組み込んでるから」
美咲は、その表情から、以前のような怯えや情けなさが消え去り、凛とした自立心が見て取れた。
「私、今度の四半期で、正社員として自立できそうなんだ。給料も上がるし、保育園の送迎もルーティンができた」
「それで?」
「だから、もう、お兄ちゃんのマンションから出ようと思う」
美咲の言葉に、健一の手元にあったクラフトビールの缶が、わずかに傾いだ。
「リフォームが終わった実家に戻るのか?」
「ううん。実家は父さんと母さんにゆっくり過ごしてもらいたいから。陽菜と二人で、マンションを借りることにしたの。会社まで電車で二駅のところ。セキュリティもしっかりしてるところを選んだ」
美咲は、健一の提案した**「生活再建プログラム」**を完璧に実行し、今、そのプログラムからの卒業を宣言したのだ。
健一の頭の中は、一瞬で**『リスク』と『メリット』**の計算で一杯になった。
リスク(美咲と陽菜が出ていくこと):
マイナス: 日常の活気、美咲の作る食事、陽菜との趣味の時間は完全に失われる。孤独な独身生活への逆戻りリスク。
メリット(美咲と陽菜が出ていくこと):
プラス: 3LDKの完璧な静寂が戻る。趣味部屋の聖域化が完全復活する。家賃相当額の「負債」を返済してもらえる。
健一は、論理的に考えれば「プラス」が勝るはずだった。静寂こそ、彼の人生の担保だったのだから。
しかし、健一の口から出た言葉は、論理とは真逆のものだった。
「……待て。そのマンションの家賃は?」
「共益費込みで13万くらいかな」
「無駄だ」
健一は即座に切り捨てた。
「俺のマンションの家賃は、お前たち二人分としても、お前の給料で賄いきれない額ではない。ここで生活すれば、月々の固定費をまるまる投資に回せるだろう。極めて非効率だ」
美咲は、健一の目を見て、優しく笑った。
「お兄ちゃんの気持ちは嬉しいよ。でもね、お兄ちゃんが私にしてくれたのは、**『投資』じゃなくて『家族』**だったんだ。その家族に、いつまでも甘えていちゃいけない。これからは、陽菜と二人で、自立した『家族』を作るよ」
美咲は、健一の顔に手を伸ばした。
「お兄ちゃんの時間と、静寂を返さないと、お兄ちゃんの人生が非効率になる」
3
健一は、美咲の決断を止めることができなかった。
週末。美咲と陽菜は、小さな引っ越し業者を呼び、健一のマンションから荷物を運び出していった。 健一は、その間、リビングのソファで、新作ゲームのパッケージを睨んでいた。もう、陽菜に邪魔される心配はない。今から一晩中、ゲームに没頭できる。
部屋から、陽菜と美咲の生活の痕跡が消えていく。
キルティングマットが撤去され、無垢材の床が現れる。おもちゃが消え、静寂が戻ってくる。 しかし、その**「静寂」は、健一が求めていたはずの安らぎではなく、耳鳴りのように響く孤独**だった。
荷物の運び出しが終わり、美咲が健一に頭を下げた。
「本当にありがとう、お兄ちゃん。この借りは、必ず返すから」
「……ああ」
健一は、目を合わせるのが嫌で、ゲーム画面に視線を固定したまま答えた。
「いつでも連絡しろ。陽菜のアウトドア英才教育は、卒業させない」
美咲と陽菜が、玄関のドアを閉めて去った。
健一はコントローラーを握り直し、ゲームをスタートさせた。 完璧なグラフィック。緻密なストーリー。最高の没入感。
だが、五分も経たないうちに、彼はコントローラーを膝の上に放り出した。
(なぜだ? 誰も邪魔しない。この至福の瞬間を、なぜ楽しめない?)
リビングは静かだった。静かすぎた。
健一は立ち上がり、「趣味部屋B」のドアを開けた。数十万のフィギュアが、完璧な配列で彼を歓迎した。だが、そこには、陽菜がたまに持ち込んでいたリカちゃん人形の「乱入」もない。
(……非効率だ)
健一は、自分に言い聞かせた。 趣味は、人生の「投資」であり、豊かさの源泉。だが、この今、完璧な静寂と完璧なコレクションの中で感じているのは、**「資産は多いが、利回りがゼロ」**という、投資家として最も恐れる状態だった。
健一はリビングに戻り、床に広がる静寂を見つめた。 そして、彼はスマートフォンを取り出し、操作した。
画面に表示されたのは、美咲が引っ越したマンションの住所と、その近隣にある**「良質な不動産」**の検索結果だった。
「どうせなら、隣の棟にでも引っ越すか。陽菜の送り迎えと、アウトドア英才教育の機会を最大限に確保するには、地理的なリスクを排除する必要がある」
健一は、そう論理立てて、自分自身に言い訳をした。 しかし、彼の口元は、確かに少し緩んでいた。




