第4章:投資家の本領
1
美咲が健一のマンションに避難してきてから、二週間が経とうとしていた。
健一の生活リズムは破壊されたが、美咲は生活費を賄うため、陽菜が保育園に行っている間に、健一の投資関連の資料整理やデータ入力といった「簡単な雑務」を請け負っていた。美咲は元々事務職だったため、この作業は滞りなくこなせた。健一はこれを彼女の「負債相殺」の手段として容認した。
平穏な日常に、突如、濁流が流れ込んできたのは、火曜日の夕方だった。
健一がリビングでノートPCを開き、ニューヨーク市場の動向をチェックしていると、美咲のスマートフォンに着信があった。着信音はけたたましいロック調で、美咲はビクッと体を震わせた。
美咲は画面を見て、息を飲んだ。表示されているのは、**『元夫(仮)』**というシンプルな名前。 美咲は慌てて画面を伏せ、洗面所へ駆け込んだ。
健一は、その一連の動作を静かに見ていた。美咲が洗面所で小声で話し始めたが、すぐに声は荒々しくなり、最終的には嗚咽に近いものに変わっていった。
「……だから、もう関係ないでしょう! 陽菜にも会わせたくないって言ってるじゃない! なんで勝手に職場に……」
健一はキーボードから手を離した。投資の世界では、**「リスクの兆候は、初期段階で徹底的に叩き潰せ」**が鉄則だ。美咲の悲鳴は、彼にとって無視できない巨大なリスクシグナルだった。
健一は洗面所のドアの前まで歩き、ノックもせずにドアを開けた。
美咲は涙で顔をぐしゃぐしゃにし、電話口に向かって震える声で何かを訴えていた。
健一は美咲の手からスマートフォンを奪い取った。
「や、お兄ちゃん!」
美咲が抵抗する間もなく、健一は端末を耳に当てた。
「もしもし。佐々木健一だ。美咲の兄だ。今、美咲は私と一緒にいる」
健一の声は、市場の暴落時でも冷静沈着でいられる、極めて抑揚のないトーンだった。
電話の向こうの男(美咲の元夫)は、健一の突然の介入に一瞬ひるんだようだったが、すぐに不快な甲高い声をあげた。
「あんた誰だよ! 勝手に口を挟むな! 美咲を出せ! あの女が勝手に家を出たせいで、俺は社会的な信用を失っているんだぞ!」
「社会的信用?」
健一は冷静に反芻した。
「あなたが浮気をして、婚姻関係を破綻させた事実について、あなたが失うべき信用については、既に弁護士を通じて書面を送っているはずだが」
元夫はさらに逆上した。
「ふざけるな! 弁護士なんか怖くねぇよ! 大体、あの女の兄貴が何なんだ! 金でも持ってんのか? どうせ安サラリーマンだろ!」
その言葉に、健一は初めて感情を乗せた声を上げた。それは怒りではなく、侮蔑だった。
「聞け。私は佐々木健一。ただのサラリーマンではない。美咲の離婚調停と、陽菜の養育権に関する件は、全て私が後ろで管理する。あなたは、私にとって、『美咲の生活再建というポートフォリオにおける、最大かつ最も愚かなリスクファクター』だ」
健一は美咲のメモにあった元夫の職場名を思い出し、そこにトドメを刺した。
「あなたから美咲の職場や実家に接触があった場合、その証拠を即座にあなたの勤務先のコンプライアンス部門と、既に動いている当方の弁護士に送る。そして、追加で慰謝料請求を行う。あなたのやっていることは、全て、あなた自身の負債を積み上げているだけだ」
健一は、元夫の言い返す隙を与えず、一方的に電話を切った。
2
電話が切れると、洗面所に静寂が戻った。美咲は、呆然とした表情で健一を見上げていた。
「お兄ちゃん……」
「情けない声を出すな。あれは、脅せば引っ込む種類の人間だ。論理と金で叩けばいい」
健一は、スマートフォンを美咲に返し、美咲の目の前に立ち塞がった。
「美咲。お前は感情で動くから、相手に付け入られる。だが、俺は違う。俺は、お前との関係を『投資』と定義した。俺の投資対象(お前と陽菜)が、外部の愚かなリスクによって毀損されるのは許容できない」
彼は、美咲の震える肩を掴んだ。
「お前の元夫の件は、俺に任せておけ。これからは、着信があっても出るな。全て弁護士を通して対応する」
健一は、普段の趣味人然とした姿からは想像できない、冷酷で支配的な「投資家」の顔を美咲に見せた。美咲は、その迫力に圧倒され、ただ頷くことしかできなかった。
その日の夜、健一は美咲から元夫に関する情報を全て聞き出し、深夜までかけて弁護士にメールで現状報告と今後の戦術を指示した。
「次は実家だ」
美咲は、元夫の問題が解決に向かい始めた安堵感から、健一の提案に素直に従った。
3
週末。健一は、実家の「雨漏り」という物理的な負債の査定のために、美咲を連れて帰省した。
親父と母は、美咲の元夫が二度と手を出してこないという事実に安堵していたが、実家の問題は残っていた。
健一は、雨漏りしている二階の和室に上がると、スマートフォンで写真を撮り、スケールで採寸し、そして、天井の隅を指で押した。カビ臭と共に、湿った木材の抵抗が返ってきた。
「これは、天井だけじゃ済まないな。梁や柱にまで湿気がいっている可能性がある。応急処置では無理だ。根本的なリフォームが必要だ」
親父は悲しそうな顔で言った。
「そうだろうな。でも、リフォームなんて、とてもじゃないが金が出せない。この家を売っても、多分、二束三文だ」
健一は、実家の古い台帳をめくり、固定資産税の支払い状況、親父の年金と医療費の支出、そして実家に対する唯一の**「負債」**である住宅ローン(残り僅かだが)の残高を確認した。
「親父、この家は売る必要はない。だが、このままでは、負債を積み重ねるだけだ。投資家として、この状況は許せない」
健一は、自分のiPadを取り出し、美咲と両親の三人に画面を見せた。そこには、現在の実家の市場価値、そしてリフォーム後の資産価値の予測値がグラフで示されていた。
「実家の土地は、ここ数年で再評価されており、潜在的な価値がある。リフォームの初期投資を行うことで、将来的な資産価値の増幅が見込める。そして、親父の治療費と生活費は、美咲が今後正社員で働くことで、負担を軽減できる」
健一は、淡々と、感情を挟まずに、実家という「会社」を立て直すための経営戦略を語った。
「結論だ。リフォーム費用は、俺が全額出す。ただし、担保は取る」
父と美咲は顔を見合わせた。
「この家を担保にするんじゃない。美咲だ」
健一は美咲を指差した。
「美咲。お前は離婚が成立したら、正社員として復職しろ。そして、俺に負っている**『家賃相当額』と『リフォーム費用の分割払い』を、生涯かけて俺に返済しろ。金銭でなくても構わない。俺の老後の面倒を見るとか、陽菜を一流の趣味人に育てるとか、何らかの対価**を用意しろ」
それは、美咲を永遠に健一の生活に組み込む、一種の契約だった。美咲の「自立したい」という気持ちと、健一の「家族を守りたいが、情では動きたくない」という相反する気持ちが融合した、極めて健一らしい提案だった。
美咲は、健一の目を見た。その目は、冷たい計算ではなく、**「二度と一人で泣くな」**というメッセージを伝えているように感じた。
「……わかった。お兄ちゃん。その投資、必ず回収させる」
美咲は、初めて、兄に向かって力強く頷いた。




