第3章:英才教育(アウトドア編)
1
美咲と陽菜が健一の3LDKのマンションに引っ越してきて、一週間が経過した。
健一の生活は、崩壊していた。
「聖域」として指定された、壁一面にヴィンテージカメラとレンズが並ぶ「趣味部屋A」と、希少なフィギュアとガンプラが鎮座する「趣味部屋B」こそ無事だったが、リビングとダイニング、そして健一の寝室は、もう以前の完璧な空間ではなかった。
陽菜のおもちゃの鮮やかな原色。
無印良品で統一されていた家具の上に、美咲が遠慮がちに置いた生活感溢れるビニールポーチ。そして、決定的なのは、リビングの床に敷かれた厚手のキルティングマットだった。陽菜の遊び場だ。
「お兄ちゃん、今日のお味噌汁、少し味が薄かったかな?」
美咲は健一の「負債」を減らすため、文句一つ言わずに、毎朝、完璧な時間に朝食を用意した。
「ああ、別に構わない。俺は普段インスタントだから」
健一はそう答えながらも、美咲が作るホカホカのご飯と、出汁の効いた味噌汁を完食した。独身生活の朝食は、プロテインバーか、前日の残りのクラフトビールだった。
「お兄ちゃんの家、広くてすごいね!」
陽菜は、健一の仕事部屋(趣味部屋Cとして運用中)を覗き込んでは、健一の巨大なモニターに映る株価チャートを指差した。
「これ、パズル?」
「これは、マネーゲームのスコアだ」
健一はそう答えるのが精一杯だった。
一番の打撃は、睡眠時間の減少だった。陽菜は夜中に泣き出しはしないが、早朝五時には目を覚ます。子供の甲高い声と、駆け回る足音は、遮音性の高いマンションをもってしても、健一の繊細な眠りを妨げた。
「……趣味の時間どころじゃない」
金曜日の夜、健一はソファに座り込みながら、新作ゲームのパッケージを虚ろな目で見つめた。週末は、美咲が役所や弁護士事務所に行くため、陽菜は健一が見ることになっている。
「せっかく買ったこの85インチも、アンパンマン専用機になってしまうのか……」
2
土曜日。 美咲が申し訳なさそうに、弁護士との面談に向かった後、健一は陽菜と向き合った。
「陽菜。おじちゃんの言うことをよく聞け。この家の中では、走るな。叫ぶな。そして、この部屋のドアは絶対開けるな」
健一は「趣味部屋B」のドアを指差した。そこは、数十万の価値がある限定フィギュアが並ぶ、聖中の聖域だった。
陽菜は目を丸くして、そのドアを見つめた。
「開けちゃだめなの?」
「ああ。開けると、おじちゃんの心が壊れる」
「……」
健一は、ふと思いついた。そうだ、この子を外に出せばいい。家の中が破壊されるリスクを減らし、かつ、この子も退屈させない。
「よし、陽菜。今日はおじちゃんの特別プログラムだ」
健一は自慢のSUVに、コールマンのフォールディングチェア、スノーピークの小型テント、そしてチタン製のケトルとバーナーを積み込んだ。ガチのデイキャンプ装備である。
目指すは、車で一時間のところにある、自然豊かな公園。
健一は、普段のソロキャンプで使うのと同じ完璧な手順で、テントを張り、チェアをセッティングし、ケトルでお湯を沸かし始めた。
「わあ……秘密基地だ!」
陽菜は、目の前に出現したテントを見て、目を輝かせた。
健一は、自分が集めた「道具」が、初めて第三者の、しかも純粋な喜びのために使われたことに、微かな高揚感を覚えた。
「秘密基地じゃない。これはテントだ。居住空間を確保するための、建築物だ」
「おじちゃん、火事だよ! 魔法?」
陽菜が指差したのは、健一が着火したシングルバーナーの青い炎だった。
「火事じゃない。これは火だ。調理するための熱源。よく見ておけ、陽菜。おじちゃんが今から、水の魔法をかける」
健一は、そう言ってチタン製のケトルに水を注ぎ、バーナーの上に置いた。
五分後。湯気が上がり、水が激しく沸騰し始めた。
「すごい! ぐつぐつ言ってる!」
健一は、この無垢な喜びの反応に、思わず笑みが漏れた。 彼は、今までキャンプ道具について熱く語る相手と言えば、SNSのフォロワーか、アウトドアショップの店員だけだった。知識を共有しても、ここまで新鮮な反応は返ってこなかった。
「おじちゃん、なんでそんなに詳しいの?」
「それはな、陽菜。これは趣味だからだ。趣味とは、人生を豊かにするための、最高の投資なんだ」
3
健一は陽菜に、テントの張り方、ナイフの安全な使い方(もちろん刃は使わせない)、そして、焚き火の組み方(公園なのでエアーで)などを教え込んだ。
陽菜は、健一の教えることをスポンジのように吸収した。
「これはタープ!」
「ケトル!」
「ナイフは、こう持つ!」
夕方、美咲が迎えに来たとき、陽菜は少し煤けた顔で、自慢げにテントの構造を説明していた。
「見て! ママ! 陽菜、秘密基地の作り方知ってるんだよ!」
美咲は驚いたように、健一を見た。
「お兄ちゃん、こんなに子供と遊ぶなんて……てっきり、スマホ見てるだけかと思ってた」
「失礼な。俺は、常にリスク分散を考えている。陽菜にアウトドアの基礎知識を教え込んでおけば、将来俺がソロキャンプに行けなくなった時、完璧なサポートパートナーになるだろう」
健一は、顔色一つ変えずに、論理的な理由を述べた。
しかし、その言葉の端々には、わずかな高揚感が混じっていた。
美咲は、その「リスク分散」という言葉に、ふと笑みがこぼれた。
「そう。お兄ちゃんの趣味は、そういうところがあるよね」
車でマンションに戻る道中。
陽菜は、後部座席のチャイルドシートに深く沈み込み、満足しきった顔で眠っていた。
美咲は助手席に座り、シートベルトを締めながら、その光景を後部座席に目をやりながら見ていた。
「新品を買ったのね、チャイルドシート」
「中古はリスクが高い。それに、どうせ長期滞在になる。メルカリで美品を探す時間も無かった。これは必要経費だ」
健一は、またしても論理で武装した答えを返した。しかし、美咲は知っていた。彼は、陽菜を乗せる車に、命に関わる安全装備だけは妥協しなかったのだ。
「お兄ちゃん」
美咲は健一の方を向き直った。
「陽菜、お兄ちゃんのこと、**『冒険の達人』**だって言ってたよ」
「冒険じゃない。サバイバルの基礎だ。次からはテントの設営時間を五分短縮させたい。効率の改善が必要だ」
健一は否定したが、その横顔は少し緩んでいた。
この一週間、健一は趣味の時間を削られ、独身生活の快適さを奪われた。
しかし、今日一日の体験は、彼が長年抱えていた、**「完璧な独身生活の代償」**という空虚感を、少しだけ埋めてくれた気がした。
美咲が離婚という逆境の中で、母親として強くなろうとしているように、健一もまた、中年独身の「貴族」から、頼れる「おじちゃん」へと、静かに変容を始めていた。




