第2章:投資と情
1
美咲は、健一の提案を聞いて、しばらく沈黙した。
その目は、期待と戸惑い、そして申し訳なさがないまぜになって揺れていた。
「……お兄ちゃんの家って、あの、駅前のタワーマンションだよね? 3LDKの」
美咲が知っている健一の情報は、その程度だった。
数年前に実家に届いた年賀状に、新居の住所がサラッと書いてあったのを母から聞いたらしい。
「タワーじゃない。駅から徒歩10分の普通のマンションだ。ただし、設備は一通り揃っている」
健一は「普通の」を強調したが、3LDKを独身で所有している時点で全く普通ではない。
「あそこは、お兄ちゃんのコレクションだらけなんでしょ? 陽菜が何か壊したら……」
「壊されたら、その時考える。だが、このまま雨漏りする家で生活するよりはマシだ。陽菜のためにも、一時避難と考えろ」
健一は、あくまで感情論ではなく、リスク回避と環境改善というロジックで説得を試みた。
これが彼一流の「親切」の表現方法だった。
「タダで住まわせるつもりはない。離婚が成立して落ち着いたら、家賃相当額は払ってもらう。代わりに、家の掃除と食事は任せる。ただし、俺の趣味部屋だけは聖域だ」
「家賃相当額なんて、私、払えないよ……」
「そうなるだろうな。だから、払えるようになるまで『負債』として貯めておけ。それがお前のモチベーションになる」
健一は美咲の手元に、使い古されたボールペンと、ノートの切れ端を滑らせた。
「お前の離婚調停の現状、実家の借金、親父の治療費。全部書き出せ。そして、俺のマンションに避難している間に、お前の生活再建プランを立てる。俺はアドバイスはするが、実行するのはお前だ。いいな、美咲。これは**『投資』**だ。お前という家族への、回収の見込みが薄い、リスクの高い投資だ」
美咲は、その冷徹な言い方に安堵した。
情けや同情で助けられるよりも、ビジネスライクな契約で縛られる方が、今の美咲には受け入れやすかった。少なくとも、感謝の念に押し潰されることはない。
「……わかった。迷惑は最小限にする。陽菜が、お兄ちゃんの邪魔しないように、躾はちゃんとする」
「邪魔ではない」
健一は、反射的に言い返した。
「俺が勝手に決めたことだ。邪魔だと思ったら、最初から提案していない」
2
昼前、親父達が帰宅した。
親父は杖をつきながら、母に支えられて玄関をくぐった。
二人の顔には、健一が知っている頃の溌溂とした明るさはなく、老いと疲労の色が濃く出ていた。
「健一! あんた、いつの間に!」
母は驚いた声を上げたが、すぐに目を細めて健一の顔を見つめた。
「久しぶりだね。元気そうでなにより」
その言葉に、健一は胸が締め付けられた。
この数年、両親がどれほど自分のことを心配していたか。そして、自分がいかに彼らを放置していたか。
美咲が、居間で全てを説明した。
離婚の現状、実家の雨漏り、そして健一からの「一時避難」の提案。
親父は黙って話を聞いていたが、話が終わると、健一の方をじっと見つめた。
「そうか……美咲も苦労をかけたな」
そして、親父は深々と頭を下げた。
「健一、本当にすまない。お前の静かな生活を乱してまで、迷惑をかけることになるなんて」
「迷惑ではない、親父」
健一は即座に否定した。
「これは、美咲の**『生活再建プログラム』**だ。雨漏りする家じゃ、まともに頭も働かない。それに、俺だって3LDKを一人で持て余している。陽菜が少し騒がしいくらいで、大勢に影響はない」
「でも、あそこはお前の大切な、コレクションの……」
母が躊躇がちに口を開いた。
健一は、一瞬ためらった後、正直な気持ちを口にした。
「趣味は、また集めればいい。壊されたって、直せばいい。それよりも、家族が生活できる環境を整える方が、今の俺にとって優先順位が高い」
それは、健一自身も驚くほどの、率直で、情の籠った言葉だった。
彼は、長年、趣味の価値を、人間関係の価値よりも遥かに上においてきたはずだった。
「わかった。お前がそう言うなら、美咲、しばらく健一の世話になれ」
父は、まるで家の主権を健一に譲るかのように、静かに言った。
「ただし、絶対にお兄ちゃんに迷惑をかけるんじゃないぞ」
3
その日の夕方。健一は、美咲と陽菜を乗せ、自分のマンションへと車を走らせた。
車内は静かだった。美咲は後部座席で陽菜をあやし、陽菜は後部座席に常備されている健一のキャンプ用ブランケット(メリノウール製)を弄っていた。
「お兄ちゃん」
美咲が小さく声をかけた。
「……ありがとう。助けてもらうばかりで、本当にごめん」
健一は、運転に集中しているふりをした。
「礼は要らないと言っただろう。その代わり、陽菜を躾けるのはお前の役目だ。俺のコレクションに手を出すようなことがあったら、その時は情け容赦なく説教する」
そう言いつつも、健一の頭の中は、今週末予定していたソロキャンプの計画で一杯だった。
(キャンプは無理だろうな。テントを張っている間に、陽菜が焚き火にダイブしかねない)
(いや、待て。陽菜にアウトドアの英才教育を施せば、最強の『趣味パートナー』になるのではないか?)
健一は美咲には聞こえないように、小さく笑った。 「城」への侵入者は、健一の頭の中で、すでに「未来の仲間」へとランクアップし始めていた。
車は、都会のビル群の明かりを目指して、高速道路を走り抜けていった。




