第1章:浦島太郎の帰還
1
都心から車で二時間半。健一の住む高層マンションのガラス張りのエントランスとは違い、実家の玄関は湿気を帯びた古い木の匂いがした。
「はーい、どなたー?」
インターホンから聞こえた声は、たしかに美咲のものだった。
数年ぶりどころではない。最後にちゃんと話したのはいつだったか。
高校の卒業式だったかもしれない。
その声は、かつての生意気でどこか幼さの残る響きではなく、少し低く、生活に疲れたような大人の女性の声だった。
ガチャリ、と扉が開く。
そこに立っていたのは、くたびれたピンクのTシャツにジーンズ、安っぽい花柄のエプロンをつけた美咲だった。彼女の顔には、化粧っ気はなく、目の下にはうっすらとクマができていた。20代後半、あるいは30歳手前のはずだが、どことなくやつれて見えた。
「……お兄ちゃん?」
美咲の口から出た「お兄ちゃん」という呼びかけは、健一の記憶の中のそれよりもずっと遠く、よそよそしい響きだった。
「ああ、俺だけど。ちょっと寄ってみた」
健一は普段、クライアントとの商談で使う、完璧に計算された笑顔を浮かべた。
だが、美咲は訝しむようにその表情を見つめた。
「なんで事前に連絡してこないのさ。てか、何しに?」
その態度は、まるで迷惑そうな、あるいは何か詮索されるのを恐れているような警戒心に満ちていた。
その時、美咲の足元から、小さな影がのそりと現れた。
3、4歳くらいの女の子が、美咲のジーンズの裾をぎゅっと掴み、健一を警戒するように上目遣いで見上げていた。大きな瞳と、少し縮れた茶色い髪。見慣れないその存在に、健一の頭は一瞬フリーズした。
「……お前、美咲か? その子は……」
「陽菜。私の娘」
美咲は短い言葉で事実を告げた。その表情には、開き直りと、諦めが同居していた。
「あ、ほら、陽菜。おじちゃんだよ。ママの、ええと……お兄ちゃん」
「お、おじちゃん?」
陽菜は小さな声で呟くと、健一の足元に置かれたモンベルの大きなダッフルバッグ(キャンプ道具一式が入っている)を不思議そうに眺めた。
「とりあえず、上がりなよ」
美咲はため息混じりにそう言って、健一を家の中に招き入れた。
2
リビングに入ると、記憶の中の実家とは違う、雑然とした生活感がそこにあった。
以前は骨董品収集が趣味だった親父のコレクションが飾られていた棚は空になり、代わりに、乾いた洗濯物が折り畳みかけのまま山積みになっている。
ソファにはおもちゃが散乱し、ローテーブルの上には、書きかけの書類と、子供用のマグカップが放置されていた。
「親父達は?」
「父さんは腰が悪くて、最近病院通い。母さんが付きっきり。今日は二人ともリハビリと診察で午前中いないんだよ」
健一は「そうか」とだけ答えた。
この家は、もはや自分が知っている実家ではなかった。
美咲は陽菜に「おもちゃで遊んでて」と言い聞かせ、健一を居間の一角にある、かろうじて片付いたテーブルへと促した。
「それで? 何か用事?」
美咲は早速本題に入ろうとした。
まるで、健一の滞在時間が一分でも短いことを望んでいるかのようだ。
健一は無意識に懐から自分の名刺入れを取り出しそうになったが、すぐに引っ込めた。
この場で「不動産投資の相談?」などと聞くのは野暮だろう。
「いや、ただの定期パトロールだ。帰りがけにふと思い立って。…それより、お前こそどうした。突然の里帰りにしては、随分と憔悴してるようだが」
美咲は顔を歪めた。
その顔には、隠しきれない疲労と、怒りにも似た感情が滲んでいた。
「……離婚、だよ」
健一はコーヒーカップに手を伸ばしかけたが、そのまま静止した。
「相手の浮気。慰謝料もまともに払う気がない。うち(実家)に来るしかなかったんだ。陽菜がまだ小さいから、仕事もフルタイムでは探せなくて」 美咲は吐き出すように現状を語った。その声は震えていた。
「それで、あの自転車か」
「ああ、陽菜のね。あ、これ、飲んで。インスタントだけど」
美咲が差し出したコーヒーは、ぬるくて薄かった。
健一は日頃、最高級の豆を挽いて淹れるハンドドリップしか口にしないが、文句を言う気にはなれなかった。
健一は冷静に分析を始めた。
これがビジネスなら、まず現状の「資産」と「負債」を把握する。
「ここに来てどのくらいだ?」
「三ヶ月くらい。でももう限界」
美咲は深いため息をついた。
「陽菜はまだ小さいのに、実家は古い。特にあそこの天井見て」
美咲が指差した先。そこは、数年前に父が張り替えたばかりの、自慢の和室の天井だった。しかし、その一角には、大きく水を吸った跡がシミになって広がっていた。
「雨漏りだ。この前の台風のとき、結構ひどかった。父さんが腰を痛めてから、業者を呼ぶ金も気力もないみたいで。母さんも父さんの介護でいっぱいいっぱいだし」
健一は立ち上がり、シミの近くまで寄った。
指で触れると、壁紙が柔らかく湿っていた。
「これはマズいな。木材が腐る。カビもひどいだろう」
健一は自分の3LDKのマンションを思い浮かべた。湿度は常に50%台に調整され、空気清浄機が24時間稼働している。結露防止の二重窓、最新のセキュリティシステム。その完璧な「城」と、この薄暗く湿った実家とのあまりのコントラストに、健一は頭が痛くなった。
美咲は俯いたまま、絞り出すように言った。
「……私、もうどこにも頼れるところがなくて。お兄ちゃんには、こんなみっともないところ見せたくなかったけど」
その言葉に、健一の心臓がちくりと刺された。
美咲は俺の「妹」だったはずだ。
数年連絡を取らなかった間に、彼女は「他人」に近しい存在になっていた。
そして、その「他人」は、俺の知らないところで、こんなに苦しい状況に陥っていた。
健一は美咲を助けたいと思ったわけではない。
あくまで、目の前の**「状況」**が許せなかったのだ。
雨漏りする家。体調を崩した両親。
慰謝料もまともに取れず、幼い子供を抱えて困窮している妹。
趣味を維持するために、一人で3LDKを買い、投資で金を増やしている自分の、あまりにも安定した生活。 このあまりにも巨大な「格差」が、健一のプライドを刺激した。
自分の趣味の道具を置いておくための部屋は3つもある。
一方、血の繋がった家族は雨漏りする家で困窮している。
これではまるで、自分が築いた「独身貴族の城」が、薄情な男の象徴のように見えてきた。
「美咲」
健一は静かに言った。
「その状態じゃ、いくらここで粘っても、陽菜の体にも良くない」
美咲は顔を上げた。
その目に、健一の言葉が何を意味するのかを読み取ろうとする光が宿る。
健一は、口を開きかけた瞬間、頭の中で計算機が弾き出すような音が鳴った。
『リスクは?』
『生活の質の低下は?』
『趣味の時間は?』
一瞬にして、脳内の防衛本能が警鐘を鳴らす。
だが、目の前には、幼い頃に自分が肩車をしてやった小さな妹と、その妹が命がけで守ろうとしている小さな娘がいる。
健一は、自身の趣味の城の鉄壁なセキュリティを、自ら解除するような気分で、口を開いた。
「……俺の家に来るか?」




