第84話『記録王、帰還す──異世界との永遠の別れ』
それは、何の前触れもなく届いた。
「空間座標に揺らぎを検知。記録王の源初世界への次元通路、期間限定で開通します──ただし、片道限定」
いつもの無機質な声で、クラヴィスがそう告げた。
源初世界──俺が生まれた場所、すなわち“元の日本”。
俺はクラヴィスの言葉を反芻した。「戻れる……けど、帰っては来られないってことか」
「帰還後、記録王および茜の魂核はこの世界と断絶状態に入ります。再召喚・再転移、不可」
つまり、一度戻れば、異世界で築いた全て──仲間たち、王国、記録──とは永遠に別れなければならない。
沈黙が流れるなか、茜が俺の手をそっと取った。
「……行きましょう、一朗さん。あなたの始まりの場所。私、一緒に行きたい」
彼女の声に迷いはなかった。
ああ、そうだ。俺たちはもう、どこに行くにも一緒なんだ。
「──ああ。記録しに行こう。俺たちの過去を、最後にもう一度だけ」
こうして俺と茜は、記録王としての最後の旅に出ることを決めた。
「……最後に、向こうの世界を“記録”したい。俺の始まりを、ちゃんと終わらせておきたい」
そう、俺は茜に告げた。
※ ※ ※
魔導転移の光が収まった先は、俺たちがかつて勤めていた会社の近くの路地裏だった。
夜の東京。ビルの光が眩しく、車の音が遠くに聞こえる。
茜が周囲を見渡しながら、ぽつりと呟く。「これが……私たちの世界……」
俺は黙って頷いた。
コンビニ。駅前のロータリー。夜の寮の部屋。使い捨てのように積まれた段ボール。
そのとき、不意に目の前の街角に、かつての“俺”の幻影がよみがえった。
深夜のコンビニ前、ビニール袋を提げた男が立ち尽くしている。
ベンチに座り、冷えたおにぎりを噛みしめる姿は、まぎれもなく俺だ。
場面が切り替わる。
会議室の片隅、机を叩く声。上司の怒声に下を向く俺。言い返す言葉もなく、ただ謝るだけ。
さらにもうひとつ──モニターの光だけが灯るオフィスで、無言でキーボードを叩き続ける俺。
感情を押し殺し、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
茜が静かに手を握った。
俺は、言葉が出なかった。
懐かしさと、痛みが、胸の奥で絡み合っていた。
ただそこに立ち尽くし、かつての“俺”を見つめていた。
「……あのときのあなたを、ようやく見られた気がします」
茜の頬を、一筋の涙が伝う。
彼女は、かつての俺の姿を静かに見つめながら、言った。
「私はこの人に出会えて、幸せです」
どこを見ても、あの頃の“俺”と“彼女”がいて──それぞれ孤独を抱えて生きていた。
「ねえ、一朗さん。……ここで、何を思ってたんですか?」
彼女の問いに、俺はしばらく沈黙した。
そして、ゆっくり答える。
「……何も残らない人生を、ただ延命してるだけだって。そう思ってた」
「でも、それを記録してたのも……あなたですよね?」
そうだ。誰にも知られず、消えていくだけだと思っていたけど、俺は必死で心に焼き付けていた。怒りも、屈辱も、悔しさも、寂しさも──全部。
それが、“記録魔法”になった。
「ありがとう、記録してくれて」
茜の手が、俺の手を強く握る。
あの頃の俺に伝えたい。君はちゃんと報われたって。未来に愛する人がいて、君の記録が誰かの希望になったって。
※ ※ ※
最後に、俺たちは“親睦会”で使われていた居酒屋に向かった。
深夜、すでに閉店している店のシャッターに手を添える。
「ここから、全部が始まったんだよな……」
あの日、全員で転移して、俺だけ“スキルなし”で追放されて──でも、あれがなかったら、茜には出会えなかった。
「私、この近くの受付にいましたよ。あなたが疲れた顔でタイムカードを押す姿、何度も見てました」
「え……マジで? 全然気づかなかった……」
「ふふ、こっそり見てただけですもん。私、あの頃あなたのこと……いつも気にしてたんですよ」
「それ、もっと早く言ってくれよ……」
笑いながら、でも少しだけ切なさをこめて、俺はそう言った。
あの頃、すれ違っていた二人が、今こうして同じ道を歩いている。不思議だけど、確かに現実だった。
「この世界が、私にあなたをくれたんですね」
彼女の言葉が、胸に染みた。
※ ※ ※
俺たちが最後に訪れたのは、かつて俺が派遣社員として働いていたビルの屋上だった。
この場所に、何度逃げるようにして上がっただろう。
誰にも見られずに深呼吸して、空だけを見上げて──それでも、次の仕事に戻らなきゃいけなかった。
夜の街を見下ろしながら、俺は小さく息を吐いた。
「……ここでも、ずっと、何かを諦めようとしてた気がする」
隣に立つ茜が、静かに頷いた。
「でも、あなたは諦めなかった。記録して、生き延びて、たどり着いた」
俺は、そんな彼女に微笑み返すしかなかった。
この空の下で、自分を見失っていたあの頃の俺に──今、ようやく伝えられる気がした。
「ありがとう、あのときの俺。ここまで来たよ」
※ ※ ※
帰還から二時間四十五分。クラヴィスが最後の警告を告げる。
「時間残り5分──この記録で、本機構との接続は終了となります」
「記録時間、残り十五分。ログ保存範囲を選択してください」
「クラヴィス、記録はいらない。この旅は……俺たち二人の中にだけ、あればいい」
無言のまま、クラヴィスが深く、ゆっくりと頷いたような気がした。
「了解。“非記録選択”──尊重します」
※ ※ ※
星の見えない東京の空の下。
俺たちは、手をつないで歩いた。
王でも英雄でもない、ただの“高野一朗”として。 茜も、ただの一人の女性として。
過去に別れを告げるための旅は、静かに、確かに、終わりに向かっていた。




