【第一章 魔法少女の覚醒】2
「ばふっ?」
犬がこちらを振り向いた。七海はここぞとばかりに棒切れを見せつける。
「これ、わかる~?」
「ばう! ばうわう!」
「よ、よーしよし。それじゃ、と、取ってこーい」
「わふーん!」
結局助けることにした。近くにあった棒切れを投げてみせると、犬は元気に尻尾を振って見事に追いかけていき、そのままどこかへ消えていった。
「はは……なんだ、すごい人慣れしてるじゃん……」
あれだけぬいぐるみで遊んでいたにもかかわらずあっさり去っていく様子に、マイペースなお犬様だ、と愛想笑いを浮かべる。
と同時に、ほっと一息つき、その場にへたり込んだ。結構な勇気を振り絞ったもので、緊張で足が震えていた。
「いやー助けてくれてありがとうベポ! ボクの力じゃどうにもならなかったベポ……、ホントに命の恩人ベポー!」
ぬいぐるみのような生物が、やたら快活な声で感謝を述べてくる。犬の涎でべとべとになった手を振り回すもんだから、七海の方にまで飛んでくる。
「別に、大したことしてないよ」
七海はぶっきらぼうにそう返す。散ってくる涎を躱しながら。
「こんな見ず知らずの不思議生物でも構わず助けてくれて、優しいベポ~!」
自分でそれ言っちゃうんだ……、と苦笑しつつ、ふよふよと浮かび上がるそのぬいぐるみのような生物を観察する。
本当に、なんだこれ、と目を丸くした。
体長は人の顔の二倍程度だろうか。白い毛並みと小さな毛玉のような丸耳、つぶらな赤い瞳がとてもあいくるしい。しかし、明らかに人工物ではないし、おかしな生き物であることは明白だった。羽が生えている様子もないのに、何を原動力に宙を浮いているのかも不明だ。
「……そう、どういたしまして……」
遠い目を浮かべ、ゆっくりと立ち上がる。今見たこの光景を、きっと何かの間違いだと誤魔化すので手一杯だった。
「それじゃ、私、急ぐから」
制服のスカートに付いた汚れを払いのけ、さっさと逃げようと、背を向けた。
長居は無用である。──しかし、目の前の不思議生物はそれを簡単には許してくれなかった。
「あっ、待つベポ! せめて自己紹介させてベポ!」
「うん、大丈夫。たぶんもう会わないから」
「ボクの名前はベポリスって言うベポ! よろしく~」
話聞かないなコイツ、と顔をしかめながら、ベポリスと笑顔で名乗る生物から目を背けた。直前まで犬に遊ばれもとい襲われて、なす術なく嘗められ続けていたとは思えないほど、彼の声には余裕があった。
「それにしてもさっきの犬、本当にしつこかったベポ! ボクをおもちゃか何かだと思ってたベポね!」
それは私もそう思う、と七海は同意せざるを得なかった。好きな匂いでも付いていたのだろうか。
「だから本当、キミには感謝してるベポ! 何かお礼させてほしいベポ~!」
「いや、いいよそんなの……」
どうしてだか、後を付けてくるこの生物。自然と足が速くなる。
しかし、それに合わせてこの生物もふよふよと同じ速度で付いてきた。本当に原理が謎過ぎる。
「ふむふむ、キミのその勇敢さ、そして正義感! 間違いないベポ! ボクの勘が言ってるベポ!」
「なにそれ。っていうか付いてこられても困るんだけど」
拒否感を示しても、ベポリスと名乗るこの生物は全く気にしない様子だった。
それどころか、彼は、思いもよらぬことを話す。
「キミは、魔法少女になる気はないベポか?」
──流石に足を止めた。七海の瞳孔が小さくなり反射的に彼の方へ振り向く。
「ま、魔法少女って……? 私が?」
「そうベポ! 怖くても立ち向かった勇気、それに冷静な判断! キミには魔法少女の素質があるベポ~!」
つぶらな目を閉じうっとりするように語るベポリス。
「い、いや、ありえないし、ってかアンタ、ホント何者……?」
「ボクは、魔法少女み~んなの味方ベポ~!」
快活に、楽し気に話すベポリスに、七海は一歩後ずさる。目を逸らし、悪い予感が的中したと苦笑いを浮かべた。
──この町には、いつからか『魔法少女』と呼ばれる少女たちがいた。それと時を同じくするように、昼夜問わず突然現れた、人類を襲う謎の生命体〝魔物〟の存在も。
そんな魔物との戦いに奔走し、この町を守る英雄。それが魔法少女である。
活動は魔物退治だけにとどまらない。魔物災害に見舞われた建物の修復作業に関わっているのを、七海も知っていた。また中にはメディアに露出し、一躍時の人となっている魔法少女もいる。
七海は直感的に気付いていた。彼に関わるとろくなことにならない、と。
ベポリスと名乗るこの生物は、つまりはそういう生き物なのだろう。いわゆる、魔法少女を導く、マスコット的な何か。
「悪いけど。……他を当たってくれないかな。私はそういうの、興味ないから」
少し冷たい声で、はっきり断った。素質だとかなんだとか、知ったことか。
歩き出すも、ベポリスは諦めず追いすがる。
「どうしてベポ? キミならきっと、すぐにでも活躍出来るベポよ?」
「目立つの嫌いだから、遠慮しとくね」
「それなら陰で輝く正義のヒーロー! ……カッコイイベポよ?」
「……。ま、まぁ、一度くらいは憧れるかもだけど、今はもうそういうのないよ」
少しだけ揺らいだが、ふるふると頭を振り、歩く足を速める七海。
「いや、ボクには分かるベポ。キミは、誰かを助けたいって思ってるベポ! そうベポ、キミはあの子を知ってるベポか? ほら、負け知らずのヒロイン、『奇跡』の
「いらないってば!」
あまりのしつこさに七海は思わず強い口調で言い放った。はっとして、ベポリスを見る。どこか、驚いた表情とともに、寂しそうな目をしていた。
「あ、いや。別に怒ってる訳じゃないから、気にしないで?」
七海が言い訳をするも、ベポリスは悲しそうに顔を俯かせた。
「……どうしてそんなに嫌がるベポ? よくわからないベポ……魔法少女は、キミたちの希望ベポよ?」
無視することが出来なかった七海。答える義理もないのに答えてしまっていた。
「……どうして私なの? たった今、アンタを助けただけの私が? 魔法少女なんて、きっと他にも、素質ってやつがある子、いると思うな」
「そんなことないベポ! ボクが思うにキミは、」
「私みたいな弱虫に構ってないで、他の子のとこ、行った方がいいよ。……私じゃ、到底務まらないから」
遮るように、七海は言葉を被せた。弱弱しい声で、はにかむように笑う。
「弱虫? キミがベポ? いやぁ、とてもそうは見えないベポ」
信じられないと首を傾げ、何かを確認するように七海の周りをぐるぐると回るベポリス。
「自分よりも力のありそうなあの犬を見て、戸惑いつつも状況をしっかり判断して、自分に出来そうなことを探していた。ただ弱いだけなら、そんなことも考え付かないでさっさと逃げてたと思うベポ!」
「……、そうかも、しれないけど……」
確かにあの瞬間、七海はどうにかして状況を打開出来ないか考えていた。自分が逃げ出すだけなら、手段はもっと簡単な方法を選択していただろう。
しかしそんなことを答えたところで、何も生まれない。もう終わったことだ。
鬱陶しいと鞄を担ぎ直す。それから七海はぎゅっと、鞄に付けたキャラもののストラップを握る。
「っ、とにかく、私、そんなの興味ないからっ!」
振り切るために、走った。
「あっ、ちょ……! ぼ、ボクはまだ諦めてないベポよ〜!」
勝手にしろ。七海は心で呟いて、急いでその場を離れるのだった。
◇
「──ありがとう、助かったわ。あとは一人で大丈夫だから、教室に戻っててね」
「え、でも……」
「いいから、ここから先は私の仕事。いいわね?」
「はい……」
すごすごと引き下がる。そう言われてしまうと、ただの生徒でしかない七海では反論出来ない。大人しく戻ることにした。
教室へ入ると、既にもう大半が揃っていて、各々がクラスメイトとの談笑をし心を和ませていた。
居心地は、はっきりいって良くはない。心がざわつくのを感じながら、さっさと席に着こうとする。
しかし、どういう訳か先約がいた。窓際の一番後ろ、そこは確かに彼女の席なのだが、そこには別のクラスメイトがいた。というより、机を椅子代わりにして座り、占領している者たちがいたのだ。
「でさ、あたし言ってやったのよ。もう告っちゃった方が楽になれんじゃん? って」
「えーマジ? アイツ何て?」
「したら『タイミングは俺が決めるよ、今じゃない』ってさ」
「うわつまんねー反応ー」
楽しそうに談笑をしている様子で、七海が近付くまで、その三人は気付かないでいた。
「ん? よう、七海」
「……二上さん」
切れ長で、長いまつ毛。校則違反ギリギリの茶髪ショートヘア。目を見開けば三白眼が覗いてくる。嘲るような悪い笑みは、七海を委縮させるには十分だった。
二上縁。七海のクラスメイトだった。二上だけでなく、あと二人。二上を囲うように立っていた。
ミキとユキ。二上は二人をそう呼んでいる。しかし七海はどちらがどちらかは知らなかった。興味がなかった。取り巻きの二人とでも言おうか。
「それでさー、……」
二上は、七海を前にしても談笑を続けようとしていたが、彼女が立ち去らないのを見て不機嫌そうに言った。
「なんだよ、あたしの顔になんかついてる?」
威圧的な目が、高圧的な態度が、七海の心を窮屈にさせる。人の席に勝手に乗っかって、どうしてそんなに態度がでかいのか、理解出来なかった。
「いや、えと、……そこ、私の席、だよね……」
「おう。それで?」
まるで、それが当然とでも言うように、二上は答える。
「ななみーん、はっきり言わないとわかんないよー?」
「そーそー」
同調するように、取り巻きの二人が言い合う。その顔は笑いを堪えているように見えた。……何が『ななみん』だ、友達でもないくせに。
「あ、あの、だから……」
「え、何? 全然聞こえない」
声が大きい。思わず七海は縮こまり、彼女の小さな声がかき消される。
その声で、彼女たちの様子がおかしいことに周りが気付き始め、喧騒が止む。ひそひそと話す声があちこちから聞こえてくる。
(まただよ、ホント懲りないねあの子)(あんなことして、何が楽しいんだか)(ってか結局、どっちが悪いの?)(七海じゃないの? 知らないけど)(どうでもいいけど、さっさと終わらせてほしいよね)
──ああ、本当にうるさい。何もしないくせに、何も知らないくせに。勝手なことばかり言うな。
ふつふつと滾る怒りを、ぎりっと歯を食いしばるだけに留めた。今すぐにでも暴れてやりたいような衝動に駆られてしまう。
けれどことを荒立てて問題にするのは、得策ではない。
それが彼女たちを、二上たちを刺激する一番の材料だということを、七海が一番よく知っているから。
七海は一つ、深呼吸する。それを決意の代わりとして、
「授業、始まるから」
「……ふーん」
毅然と、静かにそう言うと、案外素直に二上たちは机から離れていった。
ほっと一息を撫で下ろし、七海はゆっくりと、椅子を引いて、
「よっと」
「っ!」
ガタンッ、椅子が引かれる。七海は勢いよく尻餅をつき、床に倒れこんだ。
「あーごめんねー。ちょっとぶつかっちゃたわ、悪い悪い」
全く悪びれた素振りもない声で、愉快そうに嗤う声が、七海の背中側から聴こえてきた。何がぶつかった、だ。どうせあんたがやったんでしょ。
「でも、七海もどんくさいとこ、あるからなー」
「あ! 言えてる~」
あははは! と三人で嗤い合う。その大きな嗤い声にびくっとして、俯く彼女を置いて。
──そう。
七海雫九は、いじめられている。
二上縁。そして、この取り巻き二人に。
教室のざわめきが、周囲の視線が、恥ずかしさを助長させる。心配する声、同調するような笑い声、騒ぎを面倒くさがる声。全てが悪口のように聞こえてきて、七海は辟易する。……見なくていいよ、こんな私のことなんか。
誰しもが、自分が被害者にはなりたくない。それを象徴するように、一部のクラスメイトは明らかに無視を決め込み、一部は迷惑に思いながらも巻き込まれたくないと、見て見ぬふりをしていた。そうやってまたいつもの調子に戻るのだ。
そのことが七海の心を大きく揺さぶるが、同時に当然だとも感じていた。
抵抗の意志を一切見せることなく、無言で倒されてしまった椅子を戻し、座り直す。筆記用具一式を机から取り出して、教科書を読むふりをする。
そうしている間、「チッ」と舌打ちをし、三人は自分たちの席へと戻っていった。
唇をきゅっと結び、潤む瞳を隠すため俯き気味になりながら、七海はわなわなと震えてくる手を必死に抑えるので精一杯だった。それが、彼女の出来る最大の抵抗だった。
不意に七海は、今朝の不思議生物──ベポリスのことを思い返し、ほんの少しだけ、笑う。
──……ほらね、私は弱い。何も抵抗出来やしない、臆病者だ。クラスでもちょっと浮いてて、友達なんて一人もいない。
だから、こんな私が魔法少女だなんて、夢にも思っちゃいけないんだよ。
そんなことを考えながら、爪が食い込むほどに強く拳を握り、悔しさを滲ませた。
自己嫌悪にも似た感情を抱えつつ、七海は、まだ止まない喧騒の中ただじっと、授業時間まで待つしか出来なかった。
孤立する自分が嫌いなのに、踏み出す勇気も持てずにいる。加えて、クラスメイトからのいじめでさらなる孤独を抱える日々。
何かが、誰かが。こんな退屈をぶち壊してくれたらいいのに。そう願わずにはいられなかった。
ふと、窓の外を見た。六月の空は厚い雲が覆っており、今にも雨が振り出しそうだった。
だが、その空に、あるものを見た。
「……あ」
──記憶の片隅に今でも残る、あの日の光景。
七海はそれまで、カラフルな飛行機雲の景色しか見たことがなかった。その先の、彼女たちのことはそれまでよく知らなかったし、今もよく知らないままだ。
けれど一度だけ、七海はその飛行機雲の正体に、魔法少女に、助けられたことがあった。
『──もう、大丈夫だよ、私がいるから!』
そう言って、魔物の恐怖に怯えていた七海を明るく照らしてくれた彼女。
空を彩っていたのは、彼女を象徴する、ピンクの軌跡だった。