【第四章 奇跡を紡ぐ少女】1
「くぁ……」
バス停を降りてから、欠伸を一つ。寝不足気味な体が少し重たく感じていた。
「眠そうベポねぇ」
「うん……最近ちょっと忙しかったし……」
言いながら目蓋を擦り、今日もふらと裏道に歩みを寄せる。
魔法少女として本格的に活動を始めてからというもの、七海は日々の生活環境に変化が起きていた。
魔法修行に、学校生活に、学期末のテスト勉強とやることが増え、七海の体力は疲弊気味であった。
そして、直近でまた一つ増えたのは、球技大会の練習だ。体育の時間のみではあるが、まともに動けば体力を使う上、筋肉痛にも苛まれる。かくいう七海は、根っこがインドア派であるため、慣れない動きに疲労を感じていたのだった。
けれど、今までよりも確実に充実した毎日。七海は少し微笑んだ。その様子を見たベポリスもまた、微笑みかけていた。
「うんうん、初めて会った時より、いい顔になったベポ!」
「大袈裟だよ、そんな簡単に変わんないって」
ふと、立ち止まる。いつもの通学路、曲がり角を曲がった先の電柱に張られていた、ある魔法少女のポスターを見て七海は物思いに耽る。
──ここから、始まったんだ。
あの日、彼と出会ったときから全てが始まったのだと思うと、感慨深いものがある。犬に襲われていた彼を助け出し、魔法少女という数奇な運命に巡り合わせた。
憧れの存在だっただけに、自分が今彼女たちと同じであると実感すると、喜ばしいような、まだ少し不安で胸がいっぱいなような複雑な感情を抱えていた。
そして、二子澤五火、六城八夜という二人に出会い、交流を深めた。友達と呼べるだけの関係性に恵まれた。この感情は、正しく幸せと呼ぶに相応しいと、七海は感じていた。
ざあっと吹いた生温い、夏の便りのような風が頬を撫でる。
すると、足元の影が、ふわりと浮いたような感覚がする。影? いや、違う。日陰に差し込んだ朝日が、まるで息をしているように揺れて──その中心から、金色の粒がひとつ、ふっと浮かび上がった。
「……」
七海は、じっとそれを見つめた。
光の粒は、まるで生き物のように空中を漂い、七海の前でしばらくふわふわと踊ると、風に溶けるようにして消えた。
怖くはなかった。むしろ……懐かしいような、胸の奥がほぐれるような感覚だけが、静かに残った。
「どうかしたベポ?」
「……何でもないよ」
静かにそう言って、切り上げる。
「……何かいい事、起きるといいな」
そう呟いて、七海は学校までの道のりを穏やかに進む。
──ある、一つの影に見張られているとは知らずに。
七海は、まだ知らなかった。
魔法少女として歩む道が、どんなことを意味するのかを。
◇
「縁! こっちパース!」
キュッ、キュッ、と床の鳴る音。それに続けて忙しなく走る靴音が響く。
学校のクラス対抗の球技大会に向けて、七海たちのクラスはバスケの練習試合をしていた。
七海は、クラスメイトの活気溢れる様子を、体育館の窓際辺りで、体育座りで眺める。
──あの子、ホントよく動くなぁ。
視線の先にあったのは、二上縁の姿。普段は気だるげにしていて、ろくに運動もしていなさそうであるが、その実、運動神経は決して悪くはなかった。
二上に立ち塞がる二人のディフェンダーを、巧みなドリブルで躱し、がら空きのクラスメイトの元へパスが届けられる。そしてその勢いのまま、ゴールまで。
「ナーイス!」
軽くハイタッチをし、すぐ次の攻撃に転じていく。目まぐるしい攻防が繰り広げられていく中、七海は少し遠い目をしていた。
──私には無理だなぁ……。あんな早い動き出来ない……。
先の魔物との戦いで見せたような俊敏な動きは、魔法少女の力あってのこと。それを踏まえると、現実は厳しかった。
この試合が始まる前、即ちそれは七海の出番だった時、七海の元へボールが届いた瞬間があった。偶然ではあったものの、なんとなくわくわくしていた。
「七海さーん」
クラスメイトが手を大きく振り回すのを見ながら、七海は試してみたいことを実践したくて堪らなかった。
魔法少女として培った力を、現実でも活かせないかと。
例えばそれは、俊足。
壁として大きく立つクラスメイトを前に、足を踏み込んで、左右にステップを──。
「あ」
ぼてぼて……と、ボールは簡単に手元から離れ、ドリブルは呆気なく失敗する結果となった。
はぁ、と一つため息をつく。元々、運動神経がいい方ではない。どころか、体育の成績は万年、五点評価の二点ぐらいが当たり前だった。
「七海さん」
隣を見ると、穏やかな声色で声をかける八坂がいた。この間から、彼女はよく話しかけてくるようになっていた。
「さっき惜しかったね」
「……見てたの?」
「珍しい瞬間だったもん。見ちゃうよ。ステップは悪くなかったと思うけど、ボールさばきむずいよね~」
というより、球技全般苦手です……、と気を落とす。ボールが手に馴染まないのだ。
「でも、七海さん筋はいいと思うの。練習すれば、きっと上手くいくよ!」
「そうかなぁ……」
慰められている。完全にそう思った。
「バスケってやっぱ、全身使うからねー、何より早いから疲れちゃうよ」
「それは、同感。展開が早くてどっち行っていいのかわかんない……」
「見てるだけなら楽しいんだけどなー。ホント、なんで学校行事に球技大会なんてあるんだろね。疲れるだけじゃん」
あはは……と愛想笑いを浮かべる七海。ぐでーっと退屈そうに、八坂は続ける。
「私インドア趣味だから、体使うスポーツって苦手意識あるんだよー」
「私も。図書館で本読んだり、勉強してるぐらいがちょうどいいよ」
「……出来れば勉強もしたくは、ないかなー……」
七海と八坂は、お互い気が合うところや共通点が多く、すぐに馴染んだ。前髪で顔が見えにくいことを除けば、表情が豊かでよく笑う子だった。七海の中で八坂は、かなり心を許せる存在になっていた。……しかし、この部分においてだけは唯一、全く一致することはなかった。
「ふぁ……」
体を動かしていない時間は退屈だ。まして昼過ぎ、授業の代わりにこの時間と、窓付近の日当たりのいい場所。静養不足が祟り、眠気が襲う。
「ねぇ七海さん。もし今度の土曜日、暇ならさ──」
「うん……」
うつらうつらと、船をこぐ七海。八坂の声もあまり届かなくなっていた。
「あ、危ない!」
と、その時。
「え?」
バスケットボールが、油断していた七海の方へ向かって飛んでいき。
「ぶっ⁉」
七海の顔面に、もろに直撃する。顔を仰け反らせ、七海はそのまま倒れ込んだ。
体育館中に響き渡る悲鳴が、七海の薄れゆく意識の中でも聞こえてくる。
「なっ、七海さんッ⁉ 大丈夫⁉ ねぇ起きて! せっ、先生〜‼」
体を揺さぶりながら、近くで泣き声をあげる八坂の声を最後に、七海は気を失った。
「……」
その様子を、口元をつり上げた顔をして、七海の方を横目で見ていた者が、一人いた。
次に目を覚ましたのは、白いカーテンに仕切られた部屋だった。薬品の匂いが鼻を刺激する。
体を起こすと、ズキンと頭に来る痛みが襲ってきた。何があったんだっけ……と七海が思い出そうとしたところで。
「よう」
と隣から声をかけられる。丸椅子に座り、七海のことも見ずスマホ片手に足を組んでいた者がいた。
「……二上さん」
「災難だったな。ボールがまさか顔面ヒットなんて」
嘲笑うでもなく淡々と、二上は告げた。
「ここ、って……」
「見りゃわかんだろ、保健室だよ。気ぃ失ってぶっ倒れたから、あたしらが運んで来たんだ」
仏頂面で二上が言う。七海が自身の頭部に触れると、まだ痛みの残る部分に包帯が巻かれていた。
「……それならどうして、あなたはスマホ触ってるの。学校だよね、授業中なんだよね」
壁に付けられた時計の時刻を見て、七海は顔をしかめる。二上は動きを止め、七海と顔を合わせると露骨に嫌そうな顔をしていた。
「細けぇなぁ。暇してんだしいいだろ」
「よくないから。私まで変な目で見られるじゃん。……ま、あなたのスマホが没収されようと私には関係ないけど」
「……そんだけ話せんならもう大丈夫か、あたしは戻るぞ」
「あっ、ちょ」
「まだなんかある?」
背を向け立ち上がる二上を、七海は咄嗟に呼び止めてしまった。こちらを向いた首に七海はそっぽを向く。
「えっと、……一応」
七海は二上の制服の裾を掴み、顔を合わせないようにして恥ずかしそうに言った。
「……ありがと」
「……そ」
認めた訳ではない。けれど、七海なりに誠意を見せるための言動だった。二上はその様子に、照れ隠しのようにがしがしと頭を掻く。
「あー、それとさっきのボール。……明らかにお前を狙ってたぞ」
「……どういうこと?」
「知らねーよ。嫌われてんじゃねーの。誰かさんから。まぁ、だから、気ぃ付けろよ」
「……ご忠告どうも」
狙っていた。その言葉が引っかかる。二上以外に七海を嫌悪する相手など、誰かいただろうかと七海は考えていた。いるとすればあの二人だろうと考えたが、二上を通した七海への接触がない今、二人がそんな行動に出るだろうか。
今まで間接的に、虎の威を借る狐の真似をしていただけの二人が。
「……言っとくけど、あたしはやってねーからな」
「わかってるよ、あなたがそんなマッチポンプみたいな器用な真似、出来る訳ないって──いったぁ⁉」
二上のデコピンが七海の頭部を襲った。涙目を浮かべ怒りをぶつける七海。
「っ〜〜〜! 怪我人に追い討ちかけるとか、普通する⁉」
「調子乗るからだバーカ」
「……! ホンット、そういうとこ、だいっきらい」
「あたしも光栄だね、このお間抜けさん」
「まった……もう、さっさと行ってよ!」
追い出すように二上をカーテンの向こうへ押し出した。ヒリヒリ痛むおでこの周りを押さえながらカーテン越しの影を睨み付ける。
「バーカ」
ダメ押しのように、影の奥から声が聞こえてきた。
「うるっさい!」
何か物でもあれば投げつけていたが、そんな物もない。かけられたのはそんな横暴な言葉だけなのだった。
「はぁ……」
二上が立ち去って、静かになった保健室で一人、ため息をつく。また不注意で怪我をしてしまったと、自分を責める。……いや、二上の言葉を信じるなら、誰かの作為的なものなのかもしれないが。
と、またカラカラとドアが音を立てる。
「……何、忘れ物でもし……」
「七海さん」
ひょこっ、と姿を現したのは、なんと八坂だった。二上ではなかったことに少し恥ずかしくなる。
「や、八坂さん……! ごめ、私勘違いしちゃった……」
「気にしなくていいよ。それより、大丈夫だった?」
「うん……まだ痛むけど……」
「そっか、うん。じゃあまだしばらく寝てた方がよさそうだね」
「え、いや……」
「良いの、先生たちにも事情は話してあるし、もうちょっと休んでなよ」
「……」
七海としてはありがたい話ではあるが、複雑な心境だった。
「あ、それとね、さっきの話なんだけど……」
「え、ごめん、何か言いかけてたっけ……」
あの瞬間の記憶がすっかり抜け落ち、何を話していたのかもあまり思い出せない七海だった。
「……、ううん、やっぱ、また今度にするね? そんなに急いでた訳でもないし」
「そうなの?」
「うん。それじゃ、先生に話してくるから、また呼びに来るね」
ひらひらと手を振って去っていく八坂。一人残された七海は、居心地の悪さを感じていた。
「……なんだかなぁ」




