【第一章 魔法少女の覚醒】1
「ごめんねぇ、七海さん。手伝わせちゃって」
「い、いえ……このくらいでしたら」
はにかむように笑いながら、七海雫九は床に散らばったプリント用紙を一枚ずつ拾い集めた。自身の長い黒髪を鬱陶しそうに耳にかけ、スカートの裾を気にしながら、担任教師と並んで廊下に膝をつく。
それは学校の昼休み。七海は用紙をぶちまけて困っている担任とばったり出くわした。思わず声をかけたのは反射的な行動だった。
「手伝いますね」
そう言ったとき、驚いたように顔を上げた教師の表情が、ふっと綻んだのを見て、七海も小さく笑みを零した。
「それにしても、随分な量ですね」
「ホント、ごめんね……」
「あ、いえっ。そうじゃなくて、その……大変そうだなって思っただけです」
曖昧に笑って、七海は赤くなった頬を隠すように俯いた。
──誰かの役に立てるのなら、それだけで嬉しい。
そんな風に思うのは、少しでも「ここにいていい理由」が欲しかったから。
だけど、それは──。
「……魔法少女、は……違う、かな」
ぽつりと漏れた独り言は、風に紛れたつもりだった。
「ん? 今、何か言った?」
教師の声に、七海は慌てて首を振った。
「い、いえ、なんでもないですっ!」
危ないところだった。思わず口に出していた自分に気付き、胸がどきりと跳ねる。
その瞬間、ある言葉が、七海の脳裏をかすめる。
『キミは、魔法少女になる気はないベポか?』
あの、奇妙な生き物の声。まるで夢のようで、でも現実にあった対話。
──違うよ。私は特別じゃない。こんな事しか、出来ないから……。
そう思おうとするたび、胸の奥で小さく疼く気持ちがあった。
七海は手のひらのプリントをそっと重ねながら、今朝の、〝べポリス〟と出会った時の事を思い返し、小さく息をついた。
◇
それは数時間前のことだった。
いつもの停車駅でバスを降りると、七海はいつものように裏道を進む。出来る限り、誰とも会わないように。
学校へ向かう人々の雑踏から離れ、ひっそりとした道をひとり歩くこの時間だけは、少し心が落ち着く気がした。
七海は元来、臆病なところがあり、人目を避け行動するきらいがあった。それは、たとえ同級生や同じ高校に通う生徒であっても同様で、人の少ない道を選ぶのも、自然なことだった。
この角を抜ければ、もうすぐ。そう思いながら、七海は特に真新しい感動もない、いつもの道を歩いていく。
すると、バササササッ! と不意に飛び立つ鳥の羽ばたきに、思わず肩を震わせた。
「……」
七海は空を見上げる。曇る空へ優雅に飛ぶ鳥の姿を眺めていると。
直後、下から、突き上げるような衝撃が七海を襲った。
「ッ! う、わぁ!」
突然の縦揺れによたよたと民家の壁にもたれる七海。慌ててしまい、肩にかけた鞄を落としてしまったが、揺れが収まるまで、じっとそこに留まるしかなかった。
「……、最近、多いな」
立ち上がり、鞄を担ぎ直す。再び歩き出そうとして。
『──見、けた──! キミ──が、──界の、──世主──!』
「ッ⁉ 何今の……」
不意に頭によぎった言葉が、七海を立ち止まらせた。脳に直接語りかけるような、混線したようなつぎはぎの言葉。不思議な感覚だった。
「うにゃん!」
「ひゃ⁉ も、もう! 何なの次から次へと……!」
今度は甲高い奇声が耳を突き、思わず肩を竦めた。
ここは普段からあまり人通りがなく、出会ってもご近所のおじいちゃんおばあちゃんくらいのもの。
けれど、今のは違う。猫? それも違う、もっと何か別のものだった。
そーっと、物陰に身を隠しながら、曲がり角の向こうを覗き込む。
「……」
そこには、大きな茶色い物体が道の真ん中で寝転がっていた。クッションのようなものが、横たわるように。
「……ん、んん?」
いや、よく見ると。それは犬のようだ、近付いてみてようやくわかった。それも大型犬。犬種には疎い七海だが、雑種ではないことは確かだった。
そして、近付いてしまったことを後悔した。
「……逃げたい」
思ったよりも大きい。こちらを見向きもしないが、襲われでもしたら、と思うと、もう動けなかった。
──ど、どうしよ、向こう側行きたいのに……。
困惑した顔で、不安そうに通学鞄の肩紐を握りしめる。たらりと汗が流れ、泣き黒子のある左目付近を伝っていく。
幸いなのは、その犬が飼い犬であるということぐらいか。ちりん、と首元の鈴が顔を振る度鳴り響く。万一噛まれたとして、病気の心配はほとんどいらないだろう。
それだけならまだよかった。
「……え?」
ぬいぐるみが、その大きな犬に襲われていた。
いや、襲われているというには、少し語弊があるか。正確には、めちゃくちゃ嘗め回され続けている。犬もなんだか楽しそうに、足でぬいぐるみを押さえつけながらひたすら嘗めている。まるで食べられそうな勢いだった。
「えぇ……なにこれ……」
七海は、通学路で出くわしたその光景に、正直ちょっと引いていた。人生でそんな光景を目にしたのは初めてだったからだ。
しかし、彼女が驚いているのは、何も犬に対してだけではない。執拗なその様子は多少不快ではあるが、まだかわいい方だ。実際、ぬいぐるみが大好きな犬など世の中探せばいくらでもいるだろう。
では、何にか。
「や、やめ、たす……けて……」
ぬいぐるみが。人間の言葉を話していたのだ。しかも、かなり流暢に。
音声機能でも入ってるのかな? と怪訝に思いながら慎重に顔を覗かせる。
「そこの……キミ、……たす、け」
明らかに彼女の方を見て、助けを求めていた。……いや、七海も最初からわかっていた。その毛並みがぬいぐるみには見えないほど、あまりにもリアルだったし、先程聞こえた奇声の主であると瞬時に理解したためだ。しかし、脳がそれを受け入れようとしなかったのだ。
──夢なら、覚めてほしい。
しかし現実は非情である。
「たす……け、食われちゃ……」
「うっ」
声が漏れた。犬が一瞬、こちらを向いた。ヤバい、完全にバレた、と七海は顔をしかめた。
「……」
「うわっ、わぶ、やめ、いつまで……うにゃあ、あああ……!」
犬はこちらには興味を示さず、また元のぬいぐるみにうつつを抜かす。何がそんなに楽しいんだろう……?
じっ……と彼女を見つめるぬいぐるみの視線が痛い。思わずばっと視線を逸らした。だらだらと汗が流れ、気まずくなる。
──悪い予感がする。
今からでも他人のふりが出来ないだろうかと、鞄で顔を隠す。こそこそと離れようと試みるが、何故か強い圧を感じる。
ゴゴゴゴゴ……と、黒いオーラすら感じ始め、堪らず、観念した七海は。
「お、おーいワンちゃん、こっち見てー」
と犬に呼びかける。ひらひらと棒切れを振るって。