認められる瞬間
森宗家という名を聞いてから数日、俺の中に一つの疑問が芽生えていた。吉田家がその勢力に従うのは分かる。だが、彼らが吉田家に何を求めているのか――その目的が見えない。
「森宗家が何を考えているか、少しでも知れればな。」
井戸で水を汲みながら、そんな独り言が口をついて出た。だが、この屋敷の中で使い走りに過ぎない俺が情報に触れる機会などほとんどない。
その時、奉公人の一人が声をかけてきた。
「おい、篠原。昼飯を持って、表門の見張りに届けてやれ。」
俺は桶を置き、用意された飯を重ねた盆を持ち上げた。屋敷の中では何でも屋のように扱われているが、こうした雑用が逆に俺の利点だ。いろいろな場所に顔を出せば、それだけ情報が入ってくる。
表門の見張りに近づくと、武士たちの声が聞こえてきた。森宗家の使者が屋敷を訪れて以来、警備が強化されているらしい。門番たちも普段より緊張感が漂っている。
「どうぞ、昼飯です。」
俺は武士たちに盆を差し出し、彼らの反応を伺った。だが、武士たちは俺に目もくれず、飯を手に取るだけだった。
「森宗家の使者は、また来るのか?」
無造作に漏れた一言が俺の耳を引いた。
「さあな。ただ、次に来る時にはもっと大きな話が動くんじゃないか?」
「噂じゃ、吉田様もその使者の話に乗り気だって話だ。」
俺はその場を離れながら、会話の断片を頭の中で整理した。次の訪問――それが何を意味するのか。もし吉田家が森宗家の提案に乗るとすれば、その先に何が待ち受けているのか。
その日の夜、奉公人たちが寝静まった後、俺は納屋から抜け出した。森宗家の使者についてもっと詳しい話を聞く必要がある。だが、屋敷内でどう動けばよいかは決まっていない。あてもなく歩きながら、屋敷の裏手に差し掛かった時だ。
「――本当にあの話に乗るつもりなのか?」
低い声が聞こえた。身を潜めて耳を澄ませると、それは吉田弥三郎の声だった。彼は誰かと話しているらしい。
「吉田殿、森宗家の力を借りれば、ここを守るどころか領地を広げることも可能です。」
別の声が答える。どうやら吉田家の重臣らしい。
「だが、それに見合う代償を求められるのは目に見えている。」
「確かに。しかし、今のままでは他の勢力に飲み込まれるのは時間の問題です。いずれにせよ、動くべき時かと。」
吉田弥三郎が短く息を吐いたのが聞こえた。
「森宗家の使者が次に来た時、条件を詰めることにしよう。それまでに準備を整える必要がある。」
その言葉を聞いて、俺は急いでその場を離れた。見つかれば追い出されるどころでは済まない。だが、重要な情報を手に入れた。森宗家の次の動き――そして、それにどう吉田家が応じるのか。
翌日、朝の雑用を終えた俺は、井戸端で千歳に出くわした。彼女は目が合うなり、いつもの冷たい視線を向けてくる。だが、俺はあえて話しかけた。
「千歳、森宗家の使者について何か聞いてるか?」
彼女は一瞬眉をひそめたが、すぐに無表情に戻った。
「奉公人が知るような話ではありません。」
「だろうな。ただ、あの使者が屋敷に来てから、様子が変わってる気がする。」
俺はあえて軽い調子で言った。探りを入れるには、こうした態度が有効だ。
彼女はしばらく俺を見つめた後、ぽつりと言った。
「確かに、吉田様が何かを決めようとしているのは事実でしょう。でも、あなたが首を突っ込むことではありません。」
「別に首を突っ込むつもりはないさ。ただ、状況を知っておきたいだけだ。」
千歳は少し考え込んだようだが、それ以上何も言わずに立ち去った。彼女の態度からして、何か知っているのは間違いない。だが、それを俺に話すつもりはなさそうだ。
吉田家が森宗家とどう関わっていくのか。その決断が俺にどう影響を与えるのかは、まだわからない。ただ、ここでの生活は着実に変化の兆しを見せている。
俺がこの時代に来た理由は分からないが、流されるままで終わるつもりはない。この屋敷で築き上げられた関係や情報を使い、必ず俺自身の道を切り開いてみせる。それが今の俺にできる唯一のことだ。