疑念の目と初めての試練
篠原彩斗は、小さな屋敷の一室に押し込められていた。藁が敷き詰められただけの部屋で、格子越しに差し込む光が彼の顔を照らしている。
朝から晩まで雑用に追われる日々だ。掃除、薪割り、水汲み。次から次へと指示が飛んでくる。俺に割り振られる仕事は、奉公人たちが嫌がるものばかりだ。
「おい、篠原! 井戸の周りが汚れてるぞ。ちゃんと掃除しろ!」
「はいはい。」
俺は短く返事をして桶を手に取った。下手に不満を漏らせば、面倒が増えるだけだ。今は目立たないようにするのが得策だと自分に言い聞かせる。
井戸端で桶を洗いながら、冷たい水を手にかけた。寒さが骨身に染みる。この時代に転生して最初に思ったのは、便利さを失うことがこれほど辛いのか、ということだった。風呂もなく、布団も薄い。服も粗末だ。今はこの暮らしに順応するしかない。
屋敷の奉公人たちは、俺を「拾われた小僧」としか見ていないようだ。それでいい。特別な目で見られるよりも、この方が都合がいい。奉公人のひとりが通りがかりに声をかけてきた。
「おい、新入り。そろそろ昼だぞ。早く終わらせないと飯が残らないぞ。」
「わかった。」
その男は俺を見ると鼻で笑い、足早に立ち去った。こうして馬鹿にされることにも慣れてきた。余計なことを言わず、黙々と仕事をこなしていれば、いずれ自然と居場所ができるはずだ。
奉公人たちと顔を合わせることも増えてきたが、特に親しくなるような相手はいなかった。みなそれぞれの仕事に追われている。誰も他人に構っている余裕などない。だが、屋敷の中を動き回るうちに、少しずつ吉田家の事情が見えてきた。
吉田家は領主としてそこそこの権力を持ちながらも、決して豊かではない。食事は粗末で、贅沢な装飾品もない。だが、それでも領民たちからは信頼されているらしく、時折農民たちが米や野菜を献上しにやってくる。
その献上品を管理しているのが、当主・吉田弥三郎だ。普段は穏やかな物腰だが、時折見せる鋭い目つきに、ただの「田舎の領主」ではない何かを感じる。奉公人たちも弥三郎に逆らうことはしない。屋敷の中で彼の存在は絶対的だ。
ある日の夜、納屋で寝床に潜り込んでいると、奉公人たちの会話が耳に入った。
「最近、吉田様が誰かと密談をしているらしいぞ。」
「密談? 何の話だ?」
「さあな。ただ、領内では見ないような侍が来ているって話だ。」
俺は布団に包まりながら、その話に耳を傾けた。吉田家が何か大きな動きをしようとしているのか? それとも、外部から圧力を受けているのか?
「どうする?」
心の中で自分に問いかける。だが、今の俺には何もできない。雑用係に過ぎない俺が下手に動けば、即座に疑われて追い出されるだろう。今はただ、情報を集めることに専念するしかない。
翌朝、仕事の合間にふと屋敷の庭を見ると、吉田弥三郎が誰かと話をしているのが見えた。遠目にはわからないが、どうやら見慣れない侍のようだ。その男は堂々とした態度で、弥三郎に何かを告げている。
「誰だ?」
俺がつぶやいたその時、奉公人の一人が俺の隣を通りかかった。
「あれは森宗家の使者だよ。」
「森宗家?」
「ああ、ここよりも大きな勢力だ。吉田様も、森宗家には逆らえないらしい。」
奉公人はそれだけ言うと、また仕事に戻っていった。
森宗家――その名前を心に刻みながら、俺は次の行動を思案した。この家にとどまり続けるのが得策かどうか、もう少し慎重に見極める必要がある。
昼下がり、屋敷の裏手で薪を割っていると、吉田弥三郎がふいに声をかけてきた。
「篠原。」
「はい。」
「最近、屋敷内の仕事は慣れてきたか?」
「はい、お陰様で。」
「そうか。それならいい。」
それだけ言うと、弥三郎は立ち去った。だが、彼の表情には何かを測っているような気配があった。ただの雑用係にしては、俺に関心を持ちすぎている気がする。
「俺に何を期待している?」
そんな疑念が頭をよぎるが、答えは出ない。今はただ、彼の期待に応える振りをしつつ、情報を探るしかない。
こうして日々を過ごしながら、俺は少しずつ吉田家の事情を探り始めた。この家にいる限り、俺は「雑用係」であり続ける。それでいい。だが、もし何かきっかけがあれば――その時は迷わず動くつもりだ。
まだ表には出さないが、俺には目指すべき未来がある。今はその一歩目だ。この屋敷の中で、少しずつ自分の居場所を作り、次の手を打つ準備を進める。それが、俺の選んだ道だ。