第一話:宛てなき旅人、四国へ
目の前が真っ白だった。いや、周囲が白いのではない。霧の中にいるような感覚で、どこを見てもぼやけている。
「ここは……どこだ?」
声を出してみたが、空間に吸い込まれるように消えていく。耳に響く音すらない。ただの静寂だけが広がっていた。
「篠原彩斗さん、ですね?」
不意に、穏やかな女性の声が響いた。振り向くと、目の前に白い服をまとった女性が立っている。その顔立ちは人間らしさを超えた美しさで、まるで絵画から抜け出したかのようだ。
「……誰だ?」
「私は、この世界と次を繋ぐ者。今はそれだけ覚えていただければ十分です」
その女性は微笑みながら続けた。
「あなたは事故で命を落としました。そして、あなたの魂にはまだ役割があると感じています。この先、あなたを新たな世界へ送り込むことにしました」
「は?」
頭が追いつかない。事故……そうだ、確かに車のヘッドライトが視界を埋め尽くした記憶がある。それが最後だ。
「待て、それなら俺は死んだってことか?」
「はい。でも恐れないでください。これから新しい道を歩むのです。その力が、あなたには備わっています」
女性の手がこちらに伸びてきた。その手のひらから、暖かさが広がるような感覚が身体を包む。
「新しい道って、どういうことだ?」
問いかけた瞬間、足元が崩れるような感覚に襲われた。同時に、周囲の白い空間がぐるぐると渦を巻き始める。
「あなたはこれから、戦国時代に転生します」
「戦国時代だと?!」
その言葉を最後に、視界は一気に暗転した。
目を覚ましたとき、俺は見知らぬ野原に倒れていた。肌寒い風が頬をかすめる。周囲を見渡すと、見たことのない山々と木々。どこかで川が流れる音が聞こえてくる。
「どういうことだ……?」
自分の格好を見てみると、現代のものではなく、粗末な布でできた衣装だ。見覚えがないが、動きやすさを考えて作られているようだ。
「おい、誰かいるぞ!」
声がした方を見ると、鉄製の兜をかぶった男たちがこちらに向かってくる。武器を持っていて、どう見ても近寄りがたい雰囲気だ。
「こいつ……どこのもんだ?」
「いや、このあたりでは見ない顔だな」
俺を取り囲むように男たちが立つ。その鋭い視線が肌に突き刺さる。
「待て、俺は……」
何と言えばいいのかわからない。ただ、正体を明かせば何かが変わるような気もする。
「どうする?」
俺は立ち上がり、目の前の男たちを睨み返した。
男たちの目が俺を値踏みするようにじっと見ているのがわかる。どんな説明をしても、すぐに信用してくれる相手ではないだろう。だが、ここで誤解を与えれば、命を落とす危険もある。
「俺は……ただの流れ者だ。この辺りに知り合いもいないし、当てどころもない」
そう言うと、男たちは顔を見合わせた。俺が何か企んでいるかどうか探るような視線だ。
「流れ者ねぇ……妙な格好してるが、それが本当なら使い道があるかもな」
一人の男が口を開いた。他の連中は彼に従っているようで、どうやらこの場を仕切っているらしい。
「使い道?」
俺は眉をひそめたが、逆らう余裕はない。この状況を切り抜けるためには、まず情報を得る必要がある。
「お前、名前は?」
「……篠原、彩斗だ」
「篠原? 聞いたことがねえ名だな。まあいい、俺たちは吉田家のもんだ。あっちの領地に顔を出してもらう」
吉田家――そう名乗った男が手を振り、俺を歩くよう促した。他の連中も俺の背後に立ち、逃げる隙を与えない。
「吉田家、か……」
俺の口から漏れたつぶやきに、男が振り返る。「ああ、知らないのか? ここらを治めてる武家だよ。お前が怪しいもんじゃねえなら、丁稚として雇ってやるかもしれん」
どうやら、すぐに殺されるわけではなさそうだ。だが、"丁稚"という言葉に少し引っかかった。俺の頭の中で、戦国時代という言葉が再び現実味を帯びてくる。
「丁稚……つまり奉公人、か」
周囲の風景は現代の日本とは大きく異なっていたが、ここが戦国時代であると確信するには十分だ。俺は胸の中で深く息を吸い込んだ。
「吉田家ね。わかった」
とりあえず、この状況を受け入れるしかない。生き延びて情報を集め、この異常な状況の真相を掴む。それが今、俺にできる唯一の選択肢だった。
男たちに囲まれながら歩き出すと、遠くに小さな集落のようなものが見えてきた。古い木造の建物が並び、周囲には田畑が広がっている。懐かしいような風景だが、どこか異世界のような感覚もある。
「ここが吉田家の領地だ。余計なことはするなよ」
先頭の男がそう言うと、俺は小さく頷いた。やがて、集落の奥に立派な屋敷が見えてきた。どうやら、これが吉田家の本拠地らしい。
「おい、こいつを連れてきたぞ!」
男が大声で呼びかけると、屋敷の中から別の武士が出てきた。厳つい表情で俺を一瞥し、不機嫌そうに言い放つ。
「また得体の知れない奴か。吉田様がどう判断するかは知らんが、変な真似をすれば切り捨てるぞ」
俺はその言葉に口を閉ざしたまま、屋敷の中へと連れて行かれた。