【真夜中】結
「可愛い可愛い私の娘。貴女は私の下で、いつまでもいつまでも幸せに暮らすの。」
頭を撫でてくる手が気色悪い。伸びた髪に指を入れてくる感覚が邪魔臭い。穏やかな声色がうざったい。
「うん、そうだね。」
いい娘らしい笑顔に反吐が出る。愛らしい声に怖気が走る。丁寧な発音に気分が悪くなる。
「ずうっと、私の下で…。」
「結?」
ハッと目を開ける。天井。一瞬どこにいるのか分からなくなったが、すぐにホテルの一室だと気付いた。
今のは夢だったらしい。思わず溜め息が出た。ファオマ帝国を出てからの数日は車中泊だったため、今夜こそベッドでぐっすり寝れると思ってたんだが。全身にじっとりと汗をかいていて気持ち悪かった。
「おい、大丈夫かァ?」
囁く声に面食らう。冷静に考えると、誰かの声で目が覚めたのだから、ここで声をかけられるのは自然だった。節約のため、ホテルは光羅謝とラオメと同室。声的に、今のは光羅謝の方か。
上体を起こして隣を見ると、すやすや眠るラオメの向こうに、例の通り椅子をつなげてベッド代わりにしている光羅謝が、こちらを見ていた。
「すんません、起こしちゃいました?」
これまでの道中でも感じたことだが、光羅謝は恐ろしく目の覚めやすい性質らしい。いくらぐっすり眠っていようと、誰が近付くと忽ち目を開く。それどころか、ちょっとした物音でさえも寝過ごせないらしい。
「いや、俺"は"大丈夫。どうしたの。」
彼を起こしたということは、俺は何かを呻いていたのだろう。
「いえ、ちょっと…、…変な夢を見ちまって。」
「そォ?」
子犬めいて首を傾げる光羅謝。俺はベッド横のテーブルからヘアピンを取って、いつものように前髪を持ち上げる。何故そんなことをするのかと、彼は問わなかった。気色悪く湿った前髪にピンをぶっ刺す。光羅謝は、俺が髪を纏め終わるまで待って、
「汗ェ、かいてない?タオル持ってこよっか?」
「あーいや、自分でやります。」
しかし彼は、スタコラサッサと洗面所へ行ってしまう。仕方がないので、大人しくベッドに腰掛けて待った。
「大丈夫?この後、寝れる?」
水の張った洗面器とタオルを持って来ながら、彼は俺の顔を覗いた。目を逸らしかけたが、踏み留まって、相手の翡翠の双眸へ微笑みかける。
「大丈夫っすよ。タオル、ありがとうございます。」
光羅謝は返事をせずに、テーブルへ洗面器を置いた。タオルを差し出されたので手を伸ばすと、ごわついた感触の直後、ガリッと皮膚をえぐる感覚があった。
「あっ…!」
ヤバい、と思うと同時に光羅謝が手を引いた。その甲に少量だが血が滲んでいる。
「ごめ」
謝りかけた俺の手を、彼は無言でむんずと掴みかかった。血の出ていない方の手。手首にかかる圧力の、予想以上の強さ。
「え、あの、ごめんなさい…。」
やはり光羅謝は返事をせずに、俺の指先に睨んでいる。引っ掻いてしまった方の指だ。
「"分解"しちまうかもしれないですから、手を…。」
手首だし、相手は腐敗の<使者>だから、杞憂だろうか?しかし俺としては、「手を触らせたら"分解"してしまう」という経験則を、今更改めも出来ない。
「……"腐って"ない。」
やがて、目を丸くした光羅謝が、ぽつんと呟いた。
「えっ?あー、そっちの心配してたんですか?」
どうも光羅謝は光羅謝で、自身の魔力の被害を不安視していたようだ。苦笑してしまう。
「それなら全然大丈夫です。この通り、ピンピンしてんで。」
ひょこひょこと指先を動かして見せる。
「うん…ピンピンしてる。」
光羅謝はまだ俺の指を見詰めている。暫くそうしていたが、突然、ふっと笑みを浮かべた。
「ははっ、本当になんともないなァ。」
屈託なく大口を開け、でもラオメを起こさないよう小さな声で、彼は笑っていた。あんまり急に笑い出すので、俺はぽかんとする他ない。
「嬉しい。」
にこっと笑みを投げかけられる。怪我がなくて良かったという意味合いか?はぁ、と曖昧な返事しか出来なかった。彼はそんな俺に気を悪くもせず、上機嫌でタオルを水に突っ込んだ。
「え、だから自分でやりますって…。」
彼へ伸ばした手に、手際良く絞ってもう拭くだけとなったタオルを渡される。何と返せばいいのかも分からないが、取り敢えず礼を言った。
「また嫌な夢見たり、何かァあったら、俺んこと起こしてね。」
穏やかな翡翠の瞳。喉に言葉が引っ掛かったまんまのおれに、光羅謝は手を伸ばした。
しゅるり、と髪を梳かれる。
「おやすみ、結。」
気色悪いとは思わなかった、全く。
おやすみなさい、と返す。




