前半【マリーゴールド】リモンド
12歳の誕生日、起きると父が居なかった。母はテーブルに突っ伏して眠っている。その頬に涙の跡があるのにぎょっとして、その後すぐに、側に手紙があるのに気付いた。
父から私に宛てたもので、内容は簡素だった。曰く、家の外の女性と両思いになり関係を持ったが、それが今日母にバレたので家を出る、と。浮気か、と鼻を鳴らした。
毛布を掛けて待ってみても母は起きなかったので、朝ご飯を作ることにする。温かいスープに、母の好きな甘口スクランブルエッグ。まだ母は起きない。少し考えてから風呂掃除をした。まだ母は起きない。洗濯物を干した。まだ母は起きない。靴磨きをした。まだ母は起きない。パンを焼いた。まだ母は起きない。
とうとう我慢できなくて、冷え切った手を母に伸ばした。お母さん、起きて、上手くパンが焼けた、と呼び掛ける。
あのとき震えるのを堪えて、ただ待っていられたら、私はもっとよく生きられたのだろうか?
起こされた母は、私を突き倒した。そのときの彼女の表情も、"あんたのせいなのに!"と叫んだ悲痛な声も、香ばしいパンの匂いも、よく覚えている。後で知ったことだが、父は浮気の動機について、己に似ていない私を見て母の浮気を疑ったからだと言ったらしい。後付けも甚だしいが、この瞬間の彼女には、それが"真実"だった。
我に返って謝る母を見詰めながら、その奥の手紙を眺めながら、私は悟った。
私が信じていたのは、こんなに儚いものだったのだと。
涙が垂れた。もっとずっと信じられるものを見つけないといけない、と思った。
そうしなきゃ、このいき苦しさはずっと続く。
そんな私が彼と出会ったのは、なんとか中2に進学出来た頃だった。その頃の私は模索中で、手当たり次第に試せば1つくらい信じられるものが現れるのではと、目につくものは全て試していた。だから_ここで順接の接続詞を使うと大体の人が変な顔を見せるが、少なくともこのときの私にとっては順接だった_銀髪でピアスを開け喫煙中で、それによって誰も近付かなかった。
だが隣の席に着いた彼は、笑顔を私に向けた。そんな事情なんて知らないみたいな、澄んだ目で。
マリーゴールドの色に輝く瞳に、乾いた感情を抱いた。汚いものも暗いものも何1つ知らないままで、こんなに美しく生きているのだ。正義は自分にあると言うように。この世は汚いと言うこっち側が失敗作のように。こんなにも残酷に、輝いている。
おはよ、と返しながらそんなことを思った。
それが間違いだったと気付くのは、中間テストの返却中。
当時の国語教師は、特定の生徒を贔屓する人で、それがテストの採点基準にも影響していた。記述で答える問題は特に差が酷く、気に入りの生徒は何かしら書けばまるっきり点をやるし、気に入らない生徒は何を書いても点はなかった。その癖に怒ると他の教師より怖いので、誰もが静かに格差を受け入れていた。
だけど、彼は違った。
愛想の良さで、彼はその教師に気に入られていた。当然、配点基準は相当に甘かった。彼はそれを、高らかに訴えたのだ。
"これは、おかしいです。"
そんなことを言えば、次のテストで点を下げられるのは目に見えている。実際、その教師は耳に痛いくらいの声で喚いた。自分が正しいとか、次のテストで覚えてろとか、恩を仇で返しやがってとか、そんな内容だったと記憶している。
面倒なことする坊っちゃんだな、と私は目を伏せた。黙っていれば点を貰えただろうにと。しかも彼は転校生なのだ。悪目立ちすれば孤立以外選べなくなる。そんなことを考える私に降って下りたのは、真っ直ぐに響く声だった。
"オレの成績を下げたいなら、どうぞ。悪いですがあなたに負ける気はしないです。だって、こんなのがあなたの正義なんでしょ?"
自然体だが満ち溢れる気配は威風堂々。低い声が柔らかく丁寧に暴れる。苛烈な言葉に反して穏やかな口調。
息を呑んで隣の彼を見上げた。
その瞳に、私の鼓動が早まる。
鮮やかなマリーゴールドの色の双眸に内包された大量の光。鋭い輝き。
己の過ちに気付いたのはこのときだ。この瞳の輝きが美しいのは、汚いものや暗いものを知らないからではない。
汚いものや暗いものも知った上で輝くから、こんなに美しいのだ。
鳥肌が立った。この世界に、こんなに強く気高く、美しい人が居るのか!
あの日からずっとぐらついていた部分が疼いた。その部分は、この人ならずっと信じられるのではないかと、私に訴えていた。信じる決心がつかないまま、そのときの授業は終わった。




