第八話 弟
翌朝、昨晩途中で起きたからか少し眠気は残るけれど、気分はスッキリして悪くなかった。
起こしに来てくれたキーアが、位置の変わったランタンを見て物言いたげな顔をしていたけれどそれは黙殺させてもらう。
「ランドルフが来たら教えてちょうだい。」
テオの主治医のランドルフはこの領地でも指折りの名医だ。医者が少ない場所なので診療所を持つことは止めていないけれど、屋敷の近くに建ててもらって何かあったらすぐ呼べるようにしてもらっている。
私達のご先祖様達は例に漏れず病弱だったようで、その中には特に医療に力を入れて支援する方もいたのだとか。おかげで人が少ない割に医療技術は王都と比べても遜色ない。
「承知しました。それから弟君がアリシア様と話したいと仰せです。」
「テオが?すぐ行くわ。」
いつもなら仕事がひと段落ついてから行くというところだった。というのもランドルフと話して、テオが王都に行けるかどうか聞いてからの方が時間効率はいい。でももし行けなかったら、私はその悲しい知らせをテオに伝えなくちゃいけない。
そう思うと、話は分けた方がいいだろう。
「アリシア様。やはり少しお変わりになられましたね。」
「どうしたの?キーア。」
以前も似たようなことを言われたけれど今度は断定と来た。そんなに私の行動は分かりやすく変わっていたかしら。
「弟君とお話しする時間を削ってまで執務をなさることは今までありませんでした。もちろん改革が始まってお忙しいからだと思いますが…急に始められたことになにか理由があるのですか?」
あります。なぜならそうしないと全員死ぬかもしれないからです。
もちろんそんなことは言えない。というかこれも別の人に聞かれたわ。既視感。
「急じゃないわ。いつかは始めなくちゃいけなかったんだもの。予告していなかったのは事実だけどね。」
キーアにテオ…でもまあ指摘しそうな人は2人くらいかしら?2人はかなり過保護な方だしもう他にはいないでしょう。
「さ、テオのところに行きましょう。」
「この間の政策を僕なりに練り直してみたんだ。」
開口一番、テオは少し恥ずかしそうな、でも誇らしそうな顔で書類の束を差し出してきた。
どうやらこの間の私の提案を言葉の通り2日で練り直してくれたらしい。私の弟は天才。
「姉様が考えた政策の1番の問題は所得差が広がることだよね。それで考えたんだけど、納税する年末に農民に給付金を渡したらいいと思うんだ。」
「給付金?でも理由が…」
給付金を特別に支給するなら何か理由が必要だ。意味もなく渡したら領民に無用な心配や疑念を抱かせてしまう。
「理由はなんでもいいよ。不作とか…うん、それが一番農民だけに渡しやすいかな。」
「実際に不作じゃなくても…ってことよね。」
「うん。農民たちは自分の周囲の情報しか入ってこないでしょ?だから自分が不作じゃないのに貰ったとしても『たまたまこの地域は普通に収穫できたんだ!ラッキー』ってなるだけだと思う。」
なるほど。
この世界にはインターネットがない。先生の世界でみんなが使っていたSNSという便利な掲示板?のようなものは存在しない。その上識字率もそう高くないので紙で情報を伝えようとしてもそこまで行き届かない。なので読める人が文字を読み、口頭で情報を伝えるのが主となるのだけれどそうなると情報が広がる範囲はそこまで大きくない。
先生の世界でイメージするなら、自治会の中で広まった噂があっても、隣の自治会では知らない人が多いといった感じだろうか。
貴族の領地は家によるけれど大体都道府県のような広さや規模感なので噂話だけで伝えられる範囲は狭い。
確かにテオの言うように給付金のおかしさには気づかれなさそう。
「でも商人達が納得するかしら…商人は農民より横のつながりが必要でしょ?だから情報も農民達よりたくさん手に入るでしょうし、不作っていうのも嘘だってバレやすいだろうし…農民ばかり優遇したら不満が募っちゃうんじゃない?」
この不便な田舎で商人がごそっといなくなったら生活が立ち行かない。だから下手に出る…とまではいかなくてもなかなか期限を損ねられないのだ。
「商人達が不満に思う理由はないと思う。」
「…どういうこと?」
「だって彼らは損してないでしょ?減税で出費が減る上にみんなものを買ってくれるようになるから儲かるし、農民達が給付金が潤ったらまた商品を買ってくれるからいいことしかないよ。」
…そっか。テオはちゃんと理論があって提案してくれたんだ。
無意識にテオの頭を撫でていた。
減税して、給付金まで配ったら市場が活性化しても私の家はマイナスかもしれない。でも、それをきっと分かった上で、テオが市民のために考えてくれたことが何より誇らしい。
「今月中には始められるように頑張るわ。ありがとう、テオ。今日はゆっくり休んでね。」
「まあまあ、だな。」
「まあまあって何よ。」
とはいえ私1人の判断では不安もあるというもの。ここは安心安全のクロード兄様に相談するに限る。
突然部屋に飛び込んできた私に驚きつつも、テオが政策を練り直したと伝えれば意外そうな顔で提案書を受け取ってくれた。
「給付金くらいで所得差は大きく詰められないだろ。」
まあそれは否めない。所得差を埋められるようなお金を配るほどの余裕はない。
「でもまあ及第点だな。給付金をいざという時のために取っておくかはもらった奴次第だが…それは所得差に関係ないしな。」
医療費とかに関してはそのうち先生の知識で見た保険制度というものを進めたいのだけれど、今すぐはちょっと難しい。
それはそれとして、この減税政策はこのまま進めていいということ。安堵に胸を撫で下ろした私をみて、クロードお兄様が不思議そうに呟いた。
「なんでこうも改革を急ぐんだ。もっと長期スパンで見ればもっとリスクの少ない方法だって見つかるだろ。」
長期スパンではダメなのだ。すぐに結果を出せなくては他の貴族の参考になることも難しいし、次の社交界で攻略対象の目にとまれない。つまりクーデター回避がしにくくなる。
それに、王都ほどじゃないけれどやっぱりこの領地にも貧困に苦しむ人はいる。即効性が必要だ。
「それは、そうだけど。でも今苦しんでいる人がいるならまず何か対処しないと。長期スパンでやる政策と短期で結果が出る政策、片方しかできないわけじゃないでしょ?」
「まあな。この領地はお前達のモンだ。俺のことはせいぜい相談役程度に思って、俺の言葉を真に受けてばっかりいるなよ。」
それはそうだ。お兄様の言うことは正しい。私が臨時の領主で、テオが未来の領主だからと言うことだけではなく、お兄様がいつ自分の領に帰る日が来るかも分からない。いる間は頼りにするにしても依存するようなシステムを作るべきではない。
「見てくれてありがとう。じゃあ私はランドルフに会いに行くから。」
「ああ。」
去り際、私は野暮用を思い出して振り向いた。次の社交界に関することだ。
「あ、お兄様、次の社交界までに「ある婦人の天蓋」を読んでおいて。今流行っているオペラの原作だそうよ。キーアが持ってると思うからあとで届けてもらうわ。」
「ある婦人の天蓋?お前、読んだことあるか?」
「まだ読んでないわ。社交界で忘れないようにギリギリに読もうと思って。」
「そうか。」
なぜかお兄様は物憂つげ、というか不安そうというか、微妙な顔をしている。
「どうしたの?読んだことがあるの?」
「一応な。」
「ロマンス小説だけれど、男性でも好む方がいるのね。」
「勧められたんだよ。」
誰に、と言うのは気になるところだけれど、聞いてしまったら長くなるので一旦保留。
それにしてもこのリアクションでは面白くなかったのだろうか。
「どうだった?」
「悪くはないが…いや、これ以上は黙っておくか。先入観なしで見た方がいいぞ、どの作品でもな。」
それは真理よね。
雰囲気だけでも誰かに聞かされてしまうと構えてしまったり作者の真意が見えてこなくなったりする。せっかく情報の巡りが悪い世界だ。文化の面くらいでは有効活用したいもの。
「ご本人とも話しましたが、残念ながらテオドール様が王都に行くのは難しいかと。」
長い眉毛に半分隠されたランドルフの瞳が悲しげに細まった。
ランドルフは真っ先に私の元へ来るのではなく、先にテオと話したみたいだ。
彼はテオが今よりもっと小さい時から主治医として、いやそれ以上に寄り添ってくれている。全力を尽くしてもやっぱり難しいのだろう。
「そう…テオの体調自体はどうかしら?王都には行けなくても、よくなっている?」
私の感覚では、微弱な変化ではあっても部屋から出られる日が増えているような気がする。これは良くなっている兆候ではないのだろうか。
「はい。来年には、王都にも行けるかもしれませんな。」
「まあ!なら良かった!それなら今年はゆっくり休んでもらいましょう。来年に備えて、ね。」
「はい。そうなったら最高ですな。」
「ふふ、ありがとうランドルフ。少し安心しました。」
王都に行けたらまずはお祖父様とお祖母様に合わせたい。年々お二人も、特にお祖父様の身体が衰えているようで、なかなか山を越えてこちらの領地に来ることが難しいのだ。
それから王都で人気のチョコレートも食べさせてあげたい。日持ちが効かないガナッシュが一番人気で、ずっとテオに食べさせてあげられないかと考えているのだ。
あとは観劇だ。お祖父様に任せれば間違い無いけれど、私も気に入った演目があるからおすすめしたい。テオは利発な子だから少し難しい演目でも楽しめるだろう。
あれこれと考えながらランドルフにも意見を仰ぐ。彼も若い頃は王都にいたと聞くし、いい意見を出してくれるだろう。
「私は社交界で着飾る姿を見られたら、この生涯に悔いはありませんな。ですが、アリシア様。未来の想像をなさるのも素敵なことですが…確定はしておりません。今できることを考えるのが最優先ですぞ。」
…嗜められてしまった。恥ずかしい、はしゃぎすぎたわね。ランドルフが年長者として振る舞うのは珍しい。もちろん、それだけに含蓄のある言葉でしたけれど。
「例えば、お土産にお菓子を買ってくる、とかですかな。」
先程の神妙な空気を一転して、ランドルフは茶目っ気混じりに笑った。つられて笑ってしまう。そういえばランドルフは甘いものに目がないのだったわね。
「安心して。テオにも、あなたにもお土産はちゃんと買ってきますから。」
「ほほ、安心いたしました。」
「テオ。」
「姉様。」
本当は執務室に行かなければいけないのだけれど、5分だけ。
再び部屋に顔を見せた私にテオが驚いたような顔をした。
「お兄様があなたの提案を褒めていたわ。」
「本当?ならよかった。」
はにかむ顔は当然、可愛らしい。
でも、もし。この顔の裏にある感情が自身の病気を恨むものだったら。
ううん、その思いは当然あるわよね。私が懸念するまでもなく。
「本題なのだけれど。」
「うん。」
日に2度も私が訪れるということは何か理由があるということだとテオは分かっているみたいだ。
「ランドルフとさっき話したわ。それで…」
皆まで言わずとも、テオは一言で理解したみたいだった。
そのことか、と一つ頷いた。
「今年は王都には行けない。でも安心して姉様。ランドルフが言ってたと思うけど僕の体調自体は良くなってるから。」
私が聞くよりも早く、テオは心配を打ち消した。
「今回王都に行かないのは万全を期してというか、体調を良くする準備みたいなものだよ。」
これから悪くなることはないとでもいうかのように、力こぶを作って見せた。全然筋肉ないわ。
結局、自信満々に笑うテオを撫でて部屋を出ることしかできなかった。




