第七話 昔の話
その日、私の領地は大規模な害獣の被害に襲われていた。
害獣なんて所詮ただの獣、知能もなく、剣で切り付ければ簡単に傷つけられる。なんて、実際に対峙したことない人間はその脅威を正しく認識できない。
人間の速度を優に超える脚も、鋭い牙も、爪も、少しの怪我では止まらない耐久力も、訓練をしていないただの人間には太刀打ちできるものではないと言うのに。
息を吐く暇もなく被害の報告が届けられる。
3階より上の部屋の窓からは恐ろしい速度で駆け抜ける獣達が見える。
目を凝らさないと分からない、うごめく影は怪我をした領民だ。
窓を開ければきっと悲鳴が聞こえてくるのだろう。
「アリシア様、カーテンを閉めましょう。」
キーアが気遣わしげに窓際へと近づいて、カーテンに手をかける。
「いい。そのままにして。」
けれども私は目を逸せない。逸らすことはできない。カーテンを閉めることはできない。
「アリシア様。厳しいことを申し上げますが見ても変わりません。王都の騎士団が来るまで待つしかないのです。我々にできることは祈ることだけです。」
フィオにも嗜められた。何もできないから、見ない方がマシなのかもしれない。でもやっぱり私には見る責任があるから。
自分で選んで目を逸らさないくせに、見たくないと心が叫ぶ。弱い私には人が怪我をするのも、死ぬのも、怯えるのも、後悔するのも、そして私を恨んで逝くのも、耐えられない。
私のせいなのに。
「あぁっ!はぁ、はぁ…」
2度目に吐き出した息はため息のように空気に溶けた。飛び起きた私の背中は汗でびっしょりと濡れている。
窓の外では雲がかかった月がぼんやりと光を放っている。まだ起きる時間ではないけれど、悪夢で寝てもいられない。
こういうときは少し歩いて体を疲れさせる。そうして眠って、明日の仕事に備えるのだ。
音ができるだけ鳴らないよう慎重に扉を開けた。
こんな時間に起きている人は守衛くらいだ。電気のないこの世界で暗闇の中遅くまで活動することはできない。
だというのに、中庭から音が聞こえる。何かが風を切る音。幽霊にしては随分物理的というか、思っていたのと違う。
「タリオス?」
火を灯したランタンが照らしたのは、剣を振るうタリオスだった。夜目が効くのだろうか、ランタンもなしに淡い月明かりだけでひたすら素振りしている。
「こんな時間まで鍛錬しているの?ちゃんと寝ないと疲れが取れないわよ。」
「貴方がおっしゃいますか。」
苦笑まじりに返された。確かに起きているのはお互い様なので説得力はなかっただろうけれど。
「おっと、失礼いたしました。」
軽口を叩いたことに気づいてすぐさま彼は表情を引き締めた。平穏な夜の空気が気を緩めさせたのか、それともお兄様にはこうやって気安く接しているのかしら。
「どうか気にせずに。それくらいの気安さは人付き合いの上で大事だと思うの。」
「寛大なお言葉、感謝いたします。」
「さっきみたいに砕けて頂戴。貴方も眠れないの?」
流石にこの時間の鍛錬が日課ということはないだろう。寝る前、というには遅すぎるし、早朝というには早すぎる。
「はい。ふと目が覚めまして。体を動かせば眠れるかと思ったのですが。」
「私と同じね。でもランタンくらいは近くに置いておいて。他の使用人が起きたらびっくりしちゃう。」
くすくすと笑えば、タリオスも失念していたとでも言うように頭を掻いた。家令のフィオはああ見えてお化けをもの凄く怖がるからひっくり返ってしまうかも。
「アリシア様はよく夜に目が覚めるのですか?」
「たまに、ね。あなたも?」
「いえ、俺はそこまで。でも今日起きていてよかった。差し出がましいようですが屋敷の中とはいえ女性が1人で出歩くのは少し危ないかと。」
あら、それもそうね。正常性バイアスというものだろうか、そういった危機管理が疎かになっていた。うっかり襲われて死んでいる場合ではないのに。
「これから眠れないときは俺を起こしてください。扉を叩いていただければすぐ起きますから。」
「それは…申し訳ないわ。大丈夫。今度から部屋の中をウロウロするようにしますから。」
少しばかりシュールな光景になってしまうけれど誰も見ていないから気にすることではない。部下の眠りを妨げる傲慢な上司ではないのだ、私は。
「それでは退屈でしょう。俺でよければ話し相手くらいにはなれます。」
会って間もないのに随分と気遣ってくれる。私が新しい雇い主だから?
私はタリオスという人間のことを知らない。彼は少なくとも先生の知識の中で乙女ゲームには登場しなかった。顔も、剣の腕も攻略対象に劣るとは思わないのだけれど、キャラが被っているからだろうか。
一度会話を止めて彼の顔をじっと眺めてみる。別に私は顔を見て相手の考えていることが分かるなんてすごい能力を持っているわけじゃない。まして今は真夜中。ランタンがあってもぼんやりとした灯りのもとでは大した情報は読み取れない。
彼の瞳には急に私が黙ってしまった困惑、そして心配。なるほど、私が眠れない理由を予想していたらしい。
「タリオス、貴方が心配してくれていることは多分当たっているのだけれど、気にしないで。もう一年付き合ってきたことだから。」
タリオスは見透かされたことに少し目を見開いて、言葉を放った。
「外野から申し上げるには踏み込み過ぎた言葉かもしれませんが、あれは貴方の責任ではありません。大規模な害獣の襲撃をただの個人が、それもご両親を亡くされたばかりの子供が左右できることはありえないのです。」
この領地は元々害獣がたびたび畑や家畜を襲うような場所だ。特に冬になると冬眠に失敗した獣が麓まで降りてくる。だからこそ領の騎士団が他よりも重んじられているのだ。
害獣が降りてくることは分かっているから、普段はそれに対応できる騎士を揃えている。でも、1年前は違った。
その年は私の両親が亡くなった年だった。親戚もほとんどいない我が家系は、私が家も領地も継がざるを得なかった。
心細い。自信がない。お父様とお母様が死んでしまったことが悲しい。寂しい。
そのときの私の心情は概ねそればかりで、何よりも大事なことを見落としていた。
その年は格段に山の実りが少なかった。その上帝国の開発が本格化したことも相まって、山の資源は減り、森の生き物たちの間では奪い合いだっただろう。
だから冬眠もできず、腹を空かせて気が立った獣たちが数えきれないほど領地に降りてきた。とてもあのとき領にいた騎士たちだけでは対応できないほどの数だった。
当然獣達は畑や家畜だけでなく領民も襲った。騎士は明らかに人手が足りていなかった。
毎日聞こえてくる領民の悲鳴。死亡者の報告。武装した騎士たちでさえ油断すれば喰われる惨状。
我が領地に甚大すぎる被害をもたらした獣害は、最終的に王都の騎士団が到着したことで、ようやく地獄の8日間は終息した。
タリオスが知っていたことに疑問はない。貴族はもちろん、新聞を読む人々なら大抵知っているほどの大災害だったから。当然、クロードお兄様に近い彼も耳にしたことはあるだろう。
「ありがとう、タリオス。少し心が軽くなりました。」
「…なら、良いのですが。」
含みがあるなあ。突っ込んでもどうしようもないから黙っておくけれど。
「タリオス、この屋敷の外には出てみた?」
あからさまに話題を逸らしてしまったけれど、まあいいか。
屋敷の外はこの領にしては都会、と言うか商業が活発な街が広がっている。王都に比べれば規模はかなり小さいけれど、地形ゆえに用事を領内で済ませたい領民たちにとってはその用途を担うことができる唯一の場だ。
その街を外して仕舞えばうちの領は畑や森だらけなのでいつでもそれなりの賑わいがある。
「はい。タンジェル殿から勧めていただきました。のどかで良い街ですね。領民の皆さんも親切な方ばかりでした。ここに来たばかりだと言ったら土産も持たせてくれる方がたくさんいて。」
「そう、タンジェルが。あの人もずっとここに住んでいるから、あなたにもこの領を愛して欲しいんでしょう。可愛がられているようで何よりです。」
タリオスは照れたように笑った。彼がお兄様の領地でどう過ごしていたかは分からないけれど、ここに来るのが初めてな以上、もしかしたらお兄様よりも心細いものがあるかもしれない。タンジェルと相性が良いようで良かった。
「ふあ…あ…」
気の抜けたあくびが漏れてしまった。忘れていたけれど今は深夜だ。眠気がぶり返すのも当然、と言ったところでしょう。ちょっと恥ずかしいけど。
「そろそろ眠りましょうか。お部屋までお送りします。」
灯りがあっても夜は少しばかり怖い。騎士がついてくれるなら安心だろう。
「ありがとうタリオス。おかげで気が紛れました。」
「こちらこそ、アリシア様とお話しできて光栄です。ああ、それから、もしまた夜中に目覚めることがあれば遠慮なくお呼びください。あなたが窮屈な思いをする方が目覚めが悪くなりそうです。」
遠慮しようとしてたのがバレてるわ…。なるほど、細やかな気遣い。モテる秘訣というやつかしら。
「うん。ありがとう、おやすみなさい。」
「おやすみなさいませ。アリシア様。」
扉を閉めた私に、タリオスの呟きは聞こえなかった。
「気が紛れました、か。」