第三十四話 同志
髪の滑りに従って殿下の手が少しずり落ちる。
彼の高い鼻が軽くその手を引っ掛けたとき、殿下はまた話を続けた。
「小さい頃から何冊も何冊も本を読んだよ。机上の空論と言われるかもしれないが、私にとって手本になるのはそれだけだった。」
本だけ…殿下のお立場なら議会を見学することも国王陛下の公務を学ぶことも出来るでしょうに。
それができなかったのか、しなかったのか、しても意味がなかったのか。まあ、考えるまでもないでしょうね。
「民の惨状は城を出なくても分かった。あれだけ税をとって、国が大した還元をしていないのだから彼らの生活が切迫するのは当然だ。」
城の中にいるからこそ分からないこともあれば、城の中にいるからこそ分かることもあるだろう。
お金の流れ…税金の流れなんかは城の中の方がわかりやすいかもしれない。どれだけ王侯貴族が浪費しているかも。
「だから私は私なりに現状を変えようと思ったんだ。考えた政策を何度も父や議員達に提出して…その全てが却下された。」
今更説明するまでもないことだけれど、この国の中枢に位置する貴族たちは民のことなど全く考えていない人が大半だろう。そして陛下はその傀儡。
殿下の提案はきっと民が楽になっても貴族達の取り分は増えない、それどころか減るものでしょうから、誰も受け付けないのは当然でしょうね。
さっきまでの言葉がなければ殿下はそれで戦意喪失してしまったのかと思うけれど、そうではないのかしら。
「目が…怖いんだ。」
さっきまで必死に平静を装っていた声も取り繕えなくなって、殿下の声は震えて聞こえた。
「私が何かする度に貴族達の視線が冷たくなる。数秒前まで私に向けていた優しい目が失望に変わる。」
「殿下、それはあなたが悪いのではなく…。」
「ああ、分かっている。分かっているんだ。欲深い人間に失望されたところで気にしてはいけない。彼らが好意的だろうと私のためにはならない。分かっているんだ。だけど…。」
咄嗟に顔を上げた殿下は、前髪が顔に影を作ってその瞳を暗くさせていた。いえ、きっと影だけじゃなくて、彼の記憶がそうさせているのでしょう。
彼は今周囲の失望という呪縛に囚われている。だって、貴族にとって殿下は都合の良い傀儡でいた方が楽で、そうでないなら排除の対象だから。
確かに、失望されることは怖い。
見込みが違ってがっかりする人、こちらの至らなさに怒りを向ける人、信じられないものを見るような目で見る人…きっと自分が世界から見放されたかのように思えることだろう。
殿下の提案が為されれば救われる人も大勢いるはずだ。けれどそれまでの道のりはあまりにも長い。まだ学園にも入っていない殿下では、一人で為すことは到底不可能だろう。
だから今も行動に移せないでいる。
「貴族なんて、誰も彼も自分のことしか考えていない利己主義者だ。この国の中枢はもう終わっているんだよ。腐っている。変えられないんだ、この穢らわしい血は!」
「それは違います!」
ヒートアップし過ぎだ。確かに貴族達を軽蔑する気持ちは殿下が持っているものかもしれないけれど、王宮に出入りする貴族を知っているくらいで貴族の全てが分かるものか。まして、血など何の関係もない。
そう、殿下は確かに賢くて、今までの経験も決してないわけじゃない。貴族にあしらわれたことだって軽視できない経験のはずだ。
けれど彼にも、そしてルイにも知らないことはある。
私はきっと、この3人の中で1番それを知っているはず。
私は一度、大きく息を吸った。
「メイロード子爵、トロント伯爵、アスラーン公爵、ケイネット伯爵、ノイオス男爵。」
突然つらつらと貴族の名を唱えはじめた私に、殿下とルイが呆けたような視線を向けた。
構わず続ける。
「ゼレート伯爵、ゴルゴット侯爵令嬢、ノリッジ伯爵令嬢、エレス伯爵令息…彼らの名前を告げた意味が分かりますか?」
「…いや。」
少し考えて殿下は首を振った。
分からないなら、それこそが答えだ。
「彼らは、一年前にレンド領で起きた獣害で亡くなった我が領民達へ真っ先に弔いの言葉をかけてくださいました。」
殿下の瞳が僅かに見開かれた。それに呼応して照明の光が瞳に差し込むけれど、またすぐに伏せられてしまう。
「言葉だけならいくらでも言える。」
「いいえ。思っていない方は言動に滲みます。そもそも私が領民の死を何とも思っていないと思って接してくる方もいました。領民の死ではなく領民が亡くなって減る税収のことを心配する方が。」
私だって貴族の端くれだ。言葉が本心なのかどうか、推し量ることくらいできる。
「殿下ならお分かりのはずです。私が挙げた名前の中に1人でも民を慮る方の心当たりはいませんでしたか?」
問いかけてはいるけれど、否定はあり得ないだろうと思った。
特にネア様は分かりやすいだろう。彼女は言動の節々に高潔さが見える方だから、ベリメラ様や私と一緒に関わってきた殿下が全く分からないはずがない。
「殿下が今まで見えていなかったものも、これから見つかるはずです。あなたが絶望した貴族の中にも、民を想う人はいるのです。」
「そう、だろうか…。あなたが言うように、本当に。」
殿下は信じることを躊躇うように呟いた。
気づいていらっしゃらないみたいだけれど、初めから殿下は矛盾なさっている。私を呼んでからずっと。
「あなたは心の奥底で貴族というものを信じていたのでしょう。最初から。そうでなければ、そもそも私を呼ぼうと思わないはずです。」
本当に誰も信じていないなら、私を呼ぶことすら無意味だと切り捨てたはずだ。それをしないのは例外もあると自分で分かっていたから。
ここで殿下の怯えと呪縛を解く。それはこれから殿下が進む道には必要ないものだ。
この先きっと、殿下が望む貴族像の通りの人たちに出会うことになる。今はまだ誤魔化して立ち上がるだけかもしれないけれど、そう遠くない未来にきっとご自分の目で気づくことができるはず。
私はその繋ぎに過ぎないけれど、目的を果たすまでは彼の同志として歩けるはずだ。
彼の前に手を差し出した。
「あなたが出会った貴族に代わって、私の期待をかけられてくれませんか?あなたが、民を救う王になるという期待です。」
ちゃんとした支えさえあればこの方は立派な指導者になれると私は知っている。
それなら、私を一時の支えにしてほしい。
力不足かもしれないけれど、喰らい付いていくだけの覚悟はあるのだから。
返答はほんの一拍の間で決められた。
殿下は差し出した手をしっかりと握り返した。そして、正面を向いた彼の瞳は今度こそ力強く輝いている。
「情けない王族のために手間をかけた。けれど、これより私はあなたの期待に応えると約束する。どうかよろしく頼む、アリシア。」




