第二十七話 ネア・ゴルゴット
目が覚めると朝だった。
疲れ具合からしてキーアが起こしてくれなければ起きる時間は昼を回っていただろう。
カーテンから降り注ぐ日差しが眩しい。とても人には見せられないような形相で窓の方を眺める。傍目にはまるで何かを睨んでいるように見えるだろう。
起き上がっただけで腕や足に痛みを感じた。遭難中に普段使わない筋肉を使ったから、所謂筋肉痛というお土産をもらってしまったらしい。
もちろん動けないということはない。仮に動けなかったとしても、今回の件はスピードが肝要だ。這ってでも行くわ。
「キーア、少し顔色を悪く見せるメイクはできないかしら。」
「承知いたしました。」
私の髪を梳かすキーアに一つ要望をする。
今日も彼女は理由も聞かず私の要望を叶えてくれた。本当、有能な侍女を持ったものだわ。
さて、身支度も整えたところで、今日は決戦の日だ。
大袈裟に言いすぎたけれど重要な日だ。
今日私達はトリオロスの件を解決する。遭難中に思いついた作戦がうまく行くか分からないけれど、それなりに確信はあった。
すでに目的の場所に向かって馬車は動いている。
ガタガタと揺れる馬車は我がレンド家のものだ。そしていつもなら私とお兄様の2人だけが乗っているのだけれど、今日はルイも同乗していた。
ルイは他家の馬車に乗るという緊張も感じさせずいつも通りに話している。
「アリシア、体調はどう?」
「問題ないわ。見て、侍女にちょっと顔色の悪そうなメイクをしてもらったの。いいでしょ?」
「うん。目的ぴったりだ。」
軽口を叩く私たちに対してお兄様は静かだ。普段なら「3人になって狭い」だの、「よく知らない奴がいて気まずい」だのと憎まれ口を叩きながらおちゃらけるのだろうけれど、流石に緊張しているのでしょうね。
もちろん私とて軽く考えているわけじゃない。でも今回の手段を考えたら緊張した顔をするよりも気軽に表情筋をほぐしておいた方が良さそうだ。
仮に誰か痛い目を見るとしたら、それはお兄様が自業自得でなるのでしょうし。
「着いたね。」
目的の場所、ゴルゴット邸は朝日を浴びて堂々と立っている。
庭の手入れは我が家が中々のアドバンテージを持っていると思っていたのだけれど、ゴルゴット邸も見事なものだ。
お祖母様のように1種類の花を目立たせるのではなく、様々な種類の季節の花があちこちで咲き乱れている。
しかし美しい庭に見惚れたのも束の間、速やかに屋敷の中へ案内された私達は、これからネア様が来るという部屋へ案内された。
お兄様、私、ルイの順番で座っているのだが、さっきから揃えられた私の膝にお兄様の膝が当たっている。それはもう壊れたおもちゃのようにガクガクと。
「ねえ。」
「なんだ。」
「怖いの?」
「すごく怖い。」
「手、握っててあげましょうか?」
「馬鹿野郎、変な絵面にするな。」
ちょっとからかっただけなのに。
けれどお兄様の膝は震えていても声は震えていなかった。よし、これなら大丈夫でしょう。
それにしても自分より怖がっている人がいると冷静になるというのは本当らしい。実のところネア様に会うのは少し怖かったのだけれどお兄様が私の3倍は緊張しているのでそれも薄れてしまった。
「それで、何のご用事?」
少ししてやってきたネア様はまるで最高傑作をうっかり破かれた画家のような凄まじい剣幕だった。
私とお兄様が一緒にいるせいか前2回の不機嫌さとは比べ物にならないほど視線が鋭い。
だが今回は理由も分からず冷たくされているのとは違う。ちゃんと話し合うために来たのだから怖くない。そんなには。
出された紅茶を一口飲んで息を整えてから口を開いた。
「まずは誤解をときたいと思っています。」
「誤解?」
「はい。私とクロード・トロントはただの親戚であって恋人関係などは一切ありません。」
ネア様の眉が上がって目が少し開かれた。驚いている顔を出さないようにセーブした…ということだろうか。
「今日はそれをわざわざ伝えるために?ルイ様まで連れて?」
次いでネア様は怪訝そうな顔をする。確かによくわからない人選よね。
「ネア様はまだ私の言っていることが本当か疑っていらっしゃるでしょう?なのでまずはその証明から始めようかと思って。まだ正式にはなっていませんがルイ・ライオと婚約関係になりました。」
「えっ?」
ここに来て初めて本当にネア様の表情が崩れた。平和的に会話するには一度意表を突くのが効果的ね。
「なので私とクロードお兄様には何の関係もありません。」
「え、ええ…そのようね?言い過ぎのような気もするけど。」
戸惑いのおかげか最初と比べて格段にネア様の雰囲気が丸くなった。このまま本題まで行きましょう。
「それで。」
話が変わることを示すように一度言葉を止める。ネア様の注意が完全に向いたことを確認してまた話し始めた。
「ネア様とクロードお兄様は恋人同士だったそうですね。あ、否定は要りません。私への対応を見れば否定の意味はありませんから。」
そろそろ隣に座るルイも退屈そうにし始めた。早く話を進めましょう。
「そしてネア様は勘違いで私に中々鋭いことをおっしゃいましたよね。」
「そ、その節は本当に申し訳ありません。」
ネア様も流石に自分の態度が褒められたものではなかったと気づいたらしい。話の途中であるにも関わらず立ち上がって頭を下げてきた。
こういうところが何というか…生真面目で嫌いになれないのよね。
これは両家に関わる問題になりかねない。だからこそ冷静になったネア様も事の重大さに気づいて張り詰めているのでしょう。
さっさと許してしまいたい気持ちを押し込めて次の言葉を放つ。
「私が欲しいのは謝罪ではありません。」
その言葉にネア様の肩がビクリと震えた。
今の一瞬で色々な想像が駆け巡ったかもしれないが、私が考えていることは悪いことじゃない。ただの…協力要請だ。
「それでは説明いたします。」
「分かった。協力するわ。」
一通り説明を聞いたネア様は予想通りすぐに了承してくれた。
作戦決行時の各々の立ち位置、流れなどを確認した私達はまさしく準備万端。
これで盤面は整ったわ。
と、言いたいところなのだけれど、私はどうしても確認しておきたいことがあった。
正直、切り捨てて無視した方が手っ取り早い問題だ。その方がリスクはない。わざわざ確認したところでそれは無意味で、むしろリスクのある行為かもしれない。
でも聞いておきたい。これは我儘のような、非合理的な行為だけれど、どうしても。
その気持ちを抑えきれない私は心に従うままネア様に声をかけた。
「少し2人で話しませんか。」
不思議そうにしながらも了承してくれたネア様はすぐに別室を用意してくれた。
「話って何ですの?」
本当に心当たりがないという顔でネア様は疑問を投げかけた。本当に何も聞かれることがないと思っているのなら大したお方だ。
「ネア様はお兄様のことが好きなんですよね。」
「好き?!いや、まあそうだけれど…。」
一度は激しく動揺したネア様だったが、私の問いかけがあまりにも凪いでいて、ただの確認に過ぎないと分かったからかすぐ落ち着いた。
「ネア様はゴルゴット家の長女で、作戦が成功すればお兄様はトロント家の当主になります。」
「ええ。そうですわね。」
状況を明確にするために話す私と、未だ何を言いたいのか分からないという顔で私の言葉を肯定するネア様。本格的にこの方はものすごく尊敬できる方なのかもしれないと思い始めた。
「つまり作戦に協力すればネア様はお兄様と結婚できなくなるかもしれないんです。なのにいいんですか?」
長子同士の結婚は難しい。どちらが嫁入りするのかあるいは婿入りするのかで揉めるからだ。ましてゴルゴット家とトロント家の家格の差を考えるとゴルゴット侯爵がネア様を嫁に送ることを期待するのは難しい。その上作戦を行えばネア様が父君、ゴルゴット侯爵の顰蹙を買うのは容易に想像できる。
これが聞きたいこと。
ネア様は、自分の恋が叶わなくなるかもしれないと分かってどうして協力する気なのだろうか。
聞かない方がいいかもしれない質問だ。ネア様が心変わりしてしまうかもしれない。けれど彼女がそんなことに気づいていないとも思えなくて、知りたかった。
「あなた、私がどうやって振られたか知ってる?」
「え?いえ…。」
一つため息をついたネア様は何のためか分からない質問をした。そして私が否定すると表情を変えずにまた話す。
「手紙よ。紙切れ1枚で私は一方的に振られたの。」
それは、何とも…。お兄様の内心は想像できるけれど、それはそれとしてネア様はさぞ傷ついたことだろう。
「でも、恋人をあっさり諦めたあの人は領民のことだけはしつこく足掻いてる。」
読めない表情で話すネア様に、私はそのことを嘆いているのかと思った。私の家に来て、引きこもるのではなく社交界に出てきて何かをしようとするお兄様の執念を切なく思っているのかと思った。
けれどネア様は予想に反して清々しく笑う。
「好きな人がそこまで大事にするものは守りたいでしょう?私も一端の恋する乙女だもの。」
それはあまりにも真っ直ぐな好意。
眩しいほどの告白。
まさかネア様の口から出たと思えず驚きに固まった私に、彼女はさらに笑う。
そして、かと言って諦めるつもりもないのだと続けた。
「巻き返してやるわよ。お父様に失望されても、クロードが当主になって状況が難しくても。私はあなたと並んで噂された王太子妃候補だったのよ?」
そう言うネア様の顔は自信気に輝いている。
ああ。
なら、よかった。
あなたの幸せを奪っていないならよかった。
並ぶなんてとんでもないわ。ネア様はやっぱり私の尊敬できるお姉様だ。




