第十九話 ピンチ
トリオロス・トロント。前トロント伯爵の弟にして、卑怯な手でクロードお兄様から爵位を奪いあまつさえ殺そうとした卑劣漢。
よくもまあ私の前でこんなことを言えたものね。面の皮もここまで厚いなら剥いで靴でも作ってしまえそう。
「アリシア様に少しお話があって参りました。メイロード子爵、申し訳ないが席を外していただきたい。」
「で、ですがそれは…」
メイロード子爵がチラチラとこちらを伺った。心配してくれているのだろう。
私が構わないと言うように目配せすると何度も不安げに振り返りながら去っていく。この男、こんな善良な方に圧をかけて恥ずかしくないのかしら。
「なんのご用ですか?」
「まずはレンド伯爵へのご就任おめでとうございます。」
わざとらしくゆっくりと拍手された。確かに前回の社交界ではまだ誰が後を継ぐか分かっていなかったので伯爵代理として私が出席するのは初めてだけれど、わざわざ祝いに来る関係でもない。
「あくまで私は代理です。お間違えないよう。」
「おや、これは失礼いたしました。」
トリオロスは胸に手を当てて恭しく頭を下げた。
さっきから仕草がいちいち芝居掛かっていて鬱陶しいのよ。早く本題に入ればいいのに。
「それでなんのご用ですか?」
「はは、急かされてしまった。せっかくの機会ですからゆっくりお話ししましょう?」
今度は子供を諭すように嗜められた。
最早ここまで来ると私を苛つかせて平静さを奪う策略か何かでしょうね。それにしても失礼な人間。
「ゆっくり話すような仲ですか?私達が?」
「これは手厳しい。親戚ではありませんか。」
どの口が。あなたは甥の立場を奪ったし殺そうとしたでしょう。
素っ気なくあしらわれたにも関わらず、気にした様子もなくトリオロスはさらに続けた。
「本題ですが、クロードをトロント家に戻していただきたい。」
予想され切った言葉だ。鋭くなった私の視線に構わずまだ続ける。
「クロードはトロント家の跡取りになる男です。」
「跡取り?あなた、私のことをものすごく馬鹿だと思っていらっしゃるのかしら。」
「そんなことは。」
ない、とまたわざとらしく眉を下げた。
「誤解していらっしゃるようですが、私は爵位を奪ったつもりはありません。クロードはまだ未熟です。経験豊富な私の下で学んでからの方がクロードにとっても領民にとっても良いと考えたまでのこと。」
分かりやすい嘘をつく。今更そんなことを言ったって殺そうとした事実は変わらない。そんな人間のところへ行くのを許すわけがないのに。
「領主として経験がないのはあなたも同じでしょう。あなたが言う通りならお兄様には私の下で学んでいただくことにするわ。さあ、爵位を返す日付の誓約書でも書きましょうか。」
私の言葉を受けてもまだトリオロスは不気味な笑みを浮かべている。言質を取られて追い詰められたはずなのに。
「はて、誓約書…ですか。構いませんが、その執行まで領地の形が残っているといいですね?」
こいつ…!
アーノルド商会のときと同じようにまた領民を盾にするつもりだ。
「ですが私もそんなことは本意ではない。現に今も私の領の悪い噂は聞こえてこないはずだ。ただクロードを渡す約束をしていただければいいのです。」
私にトロント領の領民とクロードお兄様を計れと言っているのだ。
…どうする?
お兄様が領民を犠牲にすることを良しとするはずがない。私もできない。
でもだからって殺されるのを分かってお兄様を差し出すなんてことも…
「さあ、約束を。さあ、さあ、さあ!」
私を追い詰めたトリオロスが悦に入ったように詰め寄ってくる。
心臓がバクバクして汗が首筋を伝う。
どうする?どうして、どうやってこの場を切り抜ける?
「私のいる場で荒事を仄めかすとは、良い度胸です。」
そのとき、赤いマントが目の前を翻った。
「トリオロス殿、この場は引いていただきます。」
鍛錬を積んできた大きな体躯。その体ですっぽりと私をトリオロスの前から隠したその人は、堂々と立っていた。
「な、マカリオス騎士団長…!」
トリオロスが驚きに染まって目を見開いた。
そう、礼服を窮屈そうに着るこの人は、この国の守りの要。
グレンド・マカリオス騎士団長閣下である。
「なぜ貴殿がここに。」
「メイロード子爵に呼ばれまして。驚きました、まさかか弱い子女に詰め寄る男がいるなど思いも寄りませんでしたから。」
「何か勘違いをしているようだ。失礼では?」
団長様の影から半歩分体を覗かせ、トリオロスを伺った。動揺してはいるけれど言い返す気力はあるようだ。
「はて、私は貴公がクロード殿を害す計画を立てていると聞きましたが。」
「メイロード子爵がそんなことを?であれば問題だ。私はそんなことを言っていない。」
確かに、この男は小癪にも直接の言及を避けている。
どれだけ黒に近くとも、証拠がない以上お二人に迷惑をかけるだけになってしまう。
「メイロード子爵ではありません。」
けれど団長様はトリオロスの圧に全くたじろぐことなく堂々と答える。
「トロント領に使える騎士からの情報です。私も長く騎士を務めている。ツテの一つや二つ、そこら中にありましょう。」
「それのどこに確証が…。」
「であれば帰って確認しましょう。ひとまず今日は引いていただきたい。」
背中越しでも団長様の気迫や眼力が感じ取れる。
トリオロスも策謀渦巻く社交界を潜り抜けてきた知恵者で、今回に関しては未だ有利な立場にある。けれど、何度も戦線を駆け抜けてきた団長様の威圧感には流石に気圧されたらしい。
「アリシア様、またあとで、必ず、話しましょう。」
何度も念を押しながらトリオロスは去って行った。
「ひとまず、なんとかなりましたな。」
去って行く背中を見ながら団長様が息を吐いた。余裕そうに見えて、この方もこの方で張り詰めていらっしゃったらしい。
「…ありがとうございました。」
「いえいえ。お久しぶりです、アリシア様。」
「お久しぶりです。団長様。」
あんなことがあったからだろうか。逆に緊張していない。平静を装えているわ。
笑顔で挨拶を交わした団長様はその優しげな表情を消して、真摯にこちらに向き直った。
「今日は退けましたが、社交界の期間は長い。またトリオロス殿は接触してくるでしょうしいつまでも逃げ切れるものではありますまい。どうしたものか…」
「…これからのことはこちらで対処します。」
この件は私達の問題だ。今回は私の未熟さのせいでメイロード子爵と団長様を巻き込んでしまったけれど、これ以上は、と思う。
「それは…」
多分、大丈夫なのか、とか難しいんじゃないかとかそういったことをおっしゃるつもりだったのだろう。
それでも団長様はそれ以上言葉を発さず、黙ってくれた。
「それでは失礼いたします。本当にありがとうございました。」
私が団長様と別れてから王太子殿下を探していた間にパーティーは終わってしまった。結局、もう1人の会いたかった攻略対象とは合えずじまい。
けれどまだ会う機会はある。
頭を切り替えて考えなければいけないことが他に━━━
「アリシア。」
馬車に揺られながらクロードお兄様が口を開いた。
いつになく平坦なその声に、どうしてか彼が私の屋敷に逃げてきたときよりも不安な気持ちになる。
かと言ってそんな漠然とした不安で止めることもできなくて、ただ彼の言葉を待った。
「もう俺のことを守らなくていい。」
まさか。
馬車の中には言葉を失った私と、覚悟を決めたお兄様の息遣いだけがあった。




