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残された僕達の間には沈黙が流れる。
ロードクロサイト公爵令嬢はどんな意図で僕を婚約者と望んだのだろう。
国外にいて、僕の噂を知らないのかな。
彼女が僕の噂を知ったら…ガーネット伯爵令嬢の様な汚物を見るような目で僕を見るのだろうか。
「アルヴィス殿下…」
そんな事を考えていると、ロードクロサイト公爵令嬢は僕の前に跪いて、僕を真っ直ぐに見ながら
「私のさっきの言葉に偽りはありません。急な事で驚かれたかと思いますが…絶対にアルヴィス殿下を幸せにします。私の、命に変えても」と言った。
とても真摯な瞳で、最近の僕はこんな風に人に見られる事も無くて何だか不思議な気持ちだ。
幸せにすると言っても、僕に利用価値もなく人々からの評価は最低以下だと知ったらロードクロサイト公爵令嬢も離れていくはず…。
そう考えていると、僕からの返事がなかった公爵令嬢は柔らかく笑って
「これからの人生をかけて証明してみせます」と言った。
「とりあえず、殿下のお住いで使用人の人数やこれからの事をお話させて頂ければと思うのですが…宜しいでしょうか?」
「…はい。案内します」
そう言ってロードクロサイト公爵令嬢を案内するために、立ち上がろうとした時鋭い痛みが襲ってきて地面に崩れ落ちる。
この部屋に来てから婚約だなんて予想だにしなかった展開で足の怪我をすっかり忘れてた。
それで普通に立とうとするなんて本当に僕は馬鹿だ。
僕が崩れ落ちるのを見たロードクロサイト公爵令嬢は驚いて、僕を支えようとしてくれたけど身体に触られそうになった時に迫る手に恐怖を覚えた。
バシッと言う音がして自分がとんでもない事をしてしまったと気がついた。
ロードクロサイト公爵令嬢に伸ばされた手がベラ達やガーネット伯爵令嬢を思い出して恐怖で咄嗟に手を振り払ってしまったのだ。
「っ…ご、ごめんなさい…!」
こんな醜い僕なんかに拒まれて公爵令嬢に恥をかかせてしまった。
傷1つなさそうな美しい白い手が少し赤くなっている。
これは怒られて罵倒されて叩かれたって仕方がない。
あの優しい微笑みが、蔑みや怒り等に変わるのを見るのが怖くて下を俯く。
俯いていると麗しい薔薇の香りが鼻をくすぐる。
「アルヴィス殿下、申し訳ありませんでした。私が悪いのです。殿下が謝る事ではありません、驚かせてしまって本当に申し訳ありません」
ロードクロサイト公爵令嬢は僕が座り込んでいる目の前に来て、目線を合わせ謝ってきた。
どう考えても彼女は何も悪い事等していないのに、驚かせて申し訳ないと誠意を込めて謝ってくれる。
「ちが…違うんだ、本当にごめんなさい…」
振り払った手が少し赤いのを改めて見てやっぱり痛かっただろうと思う。
そう思っていたら、ロードクロサイト公爵令嬢はとても嬉しそうに微笑んで「アルヴィス殿下は本当にお優しいのですね」と言った。
こんなに人に優しくされた事なんて随分と久しぶりで、なんて言っていいか分からない位気持ちが昂ってしまう。油断すると涙が零れそうだ。
「女性が…苦手で…だから、ロードクロサイト公爵令嬢が嫌な訳じゃないんだ。…本当にごめんね」
何とかそう伝えるとロードクロサイト公爵令嬢は柔らかく微笑んで
「知らなかったとはいえ、本当に申し訳ありませんでした。女性が苦手との事ですが、この位の距離でも辛かったりしますか?顔を見るのも辛いとかも気兼ねなく仰ってください」
彼女は手を振り払われたのにも関わらず、僕を見つめる眼差しは優しいままで、こんなに優しい人がこの世に存在するのかと不思議な気持ちになる。
「あ…触れられなかったら大丈夫…だと思う」
この位の距離にいてもロードクロサイト公爵令嬢の雰囲気のお陰なのか恐怖心は出てこない。
ベラ達がこの位の距離にいたら恐怖で身がすくむのに。
ただ触られそうになった時、怖い時を思い出してしまう。だから触られなかったら大丈夫じゃないかな、と自分でもハッキリとは分からないけどそう思った。
「承知いたしました。ではこの位の距離でお傍に居させてください」
僕が頷くと、柔らかく微笑んで嬉しそうに見える。
それを見て僕は彼女に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
だって僕は傍に居たくなるような人間ではないのに。
彼女が傍にいてくれたらと望む人は多いだろうに、こんな僕の傍に居ても仕方ないのに。
そんな時、僕でもロードクロサイト公爵令嬢でもない声が近くから聞こえた。
「お嬢様…顔を見るのも辛いと仰られた時はどうするおつもりだったのです?」
声の主は、ずっと傍で控えていたロードクロサイト家の使用人のようだった。
僕達より少し年上に見える青年で、ロードクロサイト公爵令嬢を冷ややかな目で見ている。
「あら、そんなの当然仮面とか被ってお会いするに決まってるじゃない」
ロードクロサイト公爵令嬢は胸を張って、言い返すけど、もし僕が本当に顔を見るのもしんどいとしても仮面なんか被る必要なんて無いのに、彼女は本当に優しい人だ。
でも使用人はやれやれといった顔をしていた。
「アルヴィス殿下、こちら私の専属執事のルート・アイオライトと申します」
紹介と共に、彼は王族に対する礼をとった。
「ルート・アイオライトと申します、殿下」
ロードクロサイト公爵令嬢の専属執事ならこれからも顔を合わせる事になるんだろう。
「よろしくね、ルート」と言うと、礼を返してくれた。
「ルート、お父様からステッキを借りてきてくれるかしら」
ロードクロサイト公爵令嬢はルートにそう言うと、彼は一礼してから父上や公爵が向かった部屋へと向かう。
何故ステッキが必要なのかよく分からないけど、ロードクロサイト公爵令嬢には今必要なのだろう。
僕はどうしていいか分からなくてソワソワしてしまう。
そして時折、ロードクロサイト公爵令嬢と目が合ってどうしていいか分からなくて逸らすという事が2回ほど起きた時にルートは公爵のステッキだと思われるものを持って戻ってきた。
そしてロードクロサイト公爵令嬢に渡すと、彼女は「ありがとう」と微笑み、そのままステッキを僕の方へと差し出してきた。
意図が分からず首を傾げると、ロードクロサイト公爵令嬢は微笑みながら
「御御足が痛いかと思いまして。ゴテゴテとしていて少し使いづらいかとは思いますが、宜しければお使いください」
見るからに高価そうだけど、ゴテゴテとの表現に笑ってしまう。
そして僕の足の怪我でさっき崩れ落ちたから心配してくれた様で、こんなに普通に心配されるなんて本当に久しぶりだ。
「ありがとう。使わせてもらうね」
たったそれだけの言葉に、とても嬉しそうに微笑む彼女は本当に人間なのだろうか。
もしかしたら僕の都合のいい夢なんじゃ…。
目が覚めたら何時もの部屋で、アマンダやベラ達に酷い事をされているんじゃ…。
そんな事を考えながら、自分の住む離宮へと向かう。
離宮と言っても、小さく古い屋敷だ。
王族なのに王城にも住んでいない事に驚いているんじゃないかな。
王族だなんて名前だけだと呆れてないかな。
…軽蔑してないかな。
下を向きながら、出来るだけ急いで歩く。
足は痛むけれど呼ばれた時より杖のおかげで歩きやすかった。
…………
「ここだよ」
僕はそう言って古びた屋敷の扉を開けた。
少し埃っぽい空気に眉を顰める。
「アルヴィス殿下はこちらで生活なさっているのですか?」
ロードクロサイト公爵令嬢がどんな顔をしているのか見るのが怖くて、振り向かないまま頷く。
そして自分の部屋へと歩き出した。
本来僕は部屋からほぼ出ないし、出る事をベラ達から許されてない。
だからこの屋敷がどんな風になっているか僕も検討がつかない。
でもこの感じ改めて見ると廃墟みたいだ。
後ろにいるロードクロサイト公爵令嬢は何も言わない。
でも足音は聞こえるから、付いてきているみたいだ。
やっぱり見るからに冷遇されている王子なんて当てが外れたんじゃないかな。
彼女は長年国外に居たから、僕の噂なんて知らないだろうし…。
今になって辞めたくなったとしても不思議じゃない。
第2王子だなんて名前だけの、みすぼらしくて汚くて無能な打ち捨てられたゴミのような僕を知ったら、彼女もあんな優しい目で見てくれる訳が無い。
下を向いて歩いていたから自分の部屋の前に着いたのに一瞬反応が遅れる。
そして、古びたドアを開けるとギィっと音が鳴った。
何だかいつもは気にならないのに、今は無性に恥ずかしい気持ちになった。
「どうぞ」
自分で思ったより小さい声が出た。
少し震えていたかもしれないけれど、聞こえただろうか。
そのまま僕はベッドに腰を掛けると、ロードクロサイト公爵令嬢は「お邪魔いたします」と言って部屋に入った。
ただ、彼女は不躾に部屋を観察する様な事は無くて座った僕だけを見ていた。
それも嫌な気持ちになる様な視線じゃなくて、ずっと心配するかの様な優しい視線だった。
「あ…杖ありがとう」
そう言って返そうとして立ち上がろうとしたら、ロードクロサイト公爵令嬢は慌てて立たなくて良いように取りに来てくれた。
「アルヴィス殿下、こちらには使用人はいらっしゃらないのですか?」
ベッドに座る僕と話しやすい様になのか、彼女は僕の足元に腰を落として話しかけてくれている。
心配そうな表情で問われ、使用人云々の話しより彼女の表情に目がいってしまう。
呆けてる僕にロードクロサイト公爵令嬢はすこし首を傾げて上目で僕を見つめる。
これはやっぱり僕に都合のいい夢なんじゃ…。
そう思って心配そうに見つめる瞳から目を逸らした。
「メイドが2人いるよ」
少し間が空いた事に関して彼女は何も言及せず、僕が答えを告げると少し驚いた表情を浮かべた。
「2人だけ…ですか?」
ロードクロサイト公爵令嬢が何を言いたいのか分かったため「ここに移る時に新しく来てくれたメイド2人だけだよ」と言うと、彼女はそれ以上は何も言わないで「承知いたしました」と微笑んだ。
「先程、陛下にアルヴィス殿下の身の回りのお世話をする者たちの話をしましたが、アルヴィス殿下は私が決める事についてお嫌ではありませんか?」
優しく尋ねられて、その決定権がまだ自分にある事に驚く。
でも、僕には選べる人も居ないし人に守って貰える様な人間でもないのに。
結局僕はロードクロサイト公爵令嬢に一任すると伝えると、彼女は微笑みを返してくれた。
部屋の中に一緒に入っていた護衛と思われる人達に公爵令嬢が指示を出したりしている時、僕が少し咳をしたら
「アルヴィス殿下、歩いてお疲れでしょう。お茶でも飲まれますか?」と微笑みながら、ルートの方を見ると彼は早速茶器を探しているようだ。
この部屋だけで生活が完結するよう小さなキッチン等も付いている。
そんな時、ノックも無く扉が乱暴に空いた。
「あーもう!無能王子が急に国王陛下に呼ばれるなんて何やって」
「本当朝から準備とかめんどくさいったら」
怒鳴っている様な声と共に入ってきたのはベラとアマンダだ。その声に反射的に身体がビクっと揺れて膝に置いた手に力が籠る。
2人がこういう怒った声を出す時は、何時もより辛い時間が長くなる。
それで無意識に体に力が入ってしまった。
でも2人ともその後の声が続かず、どうしたのかと恐る恐る見ると2人は僕の他に人が居るとは思わず入ってきたまま固まっている様だ。
それにロードクロサイト公爵令嬢の護衛の人が2人から僕たちを守る様に前に出ていた。
ベラとアマンダがお互いを見てどうするかのアイコンタクトを取った瞬間
「あら、王城の使用人はなんて素晴らしい教育を受けているのかしら」
扇を広げ口元を隠すロードクロサイト公爵令嬢の声は甘く鈴を転がす様な声なのに、冷え冷えとしていて声の端からも怒っている事が分かる。
「ルート…私最近国外にいたから疎いのだけれど…使用人がノックもせず部屋の主人の許可なく、乱暴に部屋へ押し入るのはこの国では常識的な事なのかしら?それも自分の使える主人を罵倒する様な事を言うのも」
「いいえお嬢様、そんなまさか」
「そうよね」
僕の座るベットからベラ達は真正面にいるからよく見えて、2人の会話が終わりロードクロサイト公爵令嬢がコツりと一歩前に出ただけなのに、ベラ達はびくりと肩を揺らした。
ベラ達は何かを言おうと思ったのか口を開くけど、ロードクロサイト公爵令嬢の方を見て口を閉じる。
僕から彼女の顔は見えないから分からないけど、ベラ達は顔を青ざめ下を向いている。
「貴女達はメイドかしら?」
ロードクロサイト公爵令嬢の言葉に青ざめて下を向く2人は何も答えない。
「まぁ…もしかして耳が不自由なの?」
そして2人の近くへ歩みを進める。
ベラ達はロードクロサイト公爵令嬢が見るからに高位の爵位を持つご令嬢だと分かった様で、ロードクロサイト公爵令嬢は2人より年下なのに彼女たちが脅えているのは何だか不思議だ。
いつも僕はこの2人が怖かったのに、その2人が彼女に脅えているのを見ると何とも言えない気持ちになる。
「貴女達がさっき発していた言葉は誰に向けて言ったのかしら」
僕からは背中しか見えないけれど、ロードクロサイト公爵令嬢はとても怒っている見たいで2人の顔色は青ざめると言うより白くなっていた。