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ある日、急にベラとアマンダがこの服に着替えてくださいと服を渡して来た。
ずっと着せられている粗末な服ではなく、正装の服だった。何故この服を着なければいけないのかと考えていると、アマンダが苛立った様に「陛下に呼ばれて居るんだから早くして」と言う。
何故父上が僕を呼ぶのか、もう僕には興味の欠片も無いと思っていたが…。
2人が苛立っているのを感じ、僕は服を着替える。
でも髪が汚れていてベラが心底嫌そうに髪を乱暴に梳かし結んで目立たないようにした。
僕は触られるのが嫌で抵抗したけど、フォークで刺した足に爪を立てられ痛みで動けなかった。
痛みを堪えて着替えをして迎えに来た使用人の後に付いていく。
迎えに来た使用人は怪我で足を引きずるのを見て汚物を見るような目をした。
でもそんな事気にもならなくなってしまった。
そうだ。僕はもう汚いし無能で無価値なゴミだから。
足が痛むので父上のいる宮まで時間が掛かってしまった。
父上は怒っているかもしれない、と思うけど誰かの手を借りるのも怖いし、誰も僕なんかを助けてくれる訳が無い。
叱られるのを覚悟で1歩1歩歩く事にした。ポケットには今ではお守りになったフォークが入っている。
僕が父上に呼ばれたのは謁見の間ではなく、父上の執務室の近くの部屋だった。
ここは父上のプライベートな空間だったはず。
何故ここに呼ばれるのか本当に分からなくて怖いなと思ってノックするのを躊躇う。
それなのに僕を連れてきた使用人がすぐさま控えめにノックをした。
連れてくる役目なのに時間がかかった事に焦っているみたいだ。
「陛下、アルヴィス殿下をお連れ致しました。」
「入れ」
父上の言葉が中から聞こえ部屋のドアが開かれた。
久しぶりに顔を見た父上は僕を見て一瞬驚いた顔をしたけど、急に険しい顔をした。
「呼んでから大分時間が掛かった様だな」
「申し訳…ありません…」
声から苛立ちを感じ縮こまる僕に、まだ何か言い募ろうとした父上だったけど、僕の視界が美しい赤で埋め尽くされた。
そして鼻腔を蕩かす薔薇の香り。
「陛下、私の我儘でアルヴィス王子殿下を呼び付けてしまいました。今殿下はお身体が悪いと伺っております。陛下の時間を取ってしまったお叱りはどうぞ私に…」
僕の前に出で、父上から僕を庇ったのは僕と同じ位の少女だった。
少女特有の甘く軽やかな声だけど、僕を庇う姿は堂々としていて父上への言葉はまるで大人の女性の様だ。
「あぁ…そういえばアルヴィスは体調を崩していたんだったな。それならば仕方あるまい。アルヴィス座りなさい」
さっきまでとは違って苛立っていた声はなりを潜めてご機嫌な声で父上は令嬢へそう言い、僕に座る様促した。
僕が座ろうと身体を動かした時に、スッと身体をずらした令嬢は腰を落とし視線を落としたまま、僕が座った事を確認して
「アルヴィス王子殿下、お久しぶりで御座います。幼少の頃に1度お会いさせて頂きましたリディア・ロードクロサイトです」と王族への最も敬意を示す正式な挨拶をしてくれた。
そういえば王族だったと自分でも忘れる様な日々だった。
だから僕は呆けてしまって、それでもロードクロサイト公爵令嬢はずっと腰を落としたまま待ってくれている。
僕なんかにそんな事をする必要なんてないのに、と何処か他人事の様に思ってしまったけど、でもずっとそうしているロードクロサイト公爵令嬢に僕は慌てて「顔をあげてください」と何とか言うことが出来た。
僕がそう言うとロードクロサイト公爵令嬢はゆったりとした上品な仕草で顔をあげ、僕を見て昔会った時と同じ表情で微笑んだ。昔…?そうだ、あの子だ。
昔お茶会で偶然会った、薔薇の妖精かと勘違いした綺麗な子。なんだか遥か昔の記憶の様で、実は僕が見たのは夢か幻とか妄想だったんじゃないかと思ってた。
母上以外でそんなに僕を見て嬉しそうにしてくれる人なんて居なかったから。
でも、この子の笑顔を見てると妄想だった訳じゃ無さそうだ。
「…覚えています」
僕が一言そう言うと、本当に嬉しそうに幸せそうに、でも何故か万感の思いをつめた様な表情をロードクロサイト公爵令嬢は浮かべた。
「アルヴィス、ここにいるリディア嬢と新たに婚約が決まった」
父上が唐突に言った言葉に僕は最初、何を言っているか理解が追いつかなかった。
「ち…父上、今なんと…?」
「リディア・ロードクロサイト公爵令嬢との婚約が決まった」
父上はなんの感情も篭っていない瞳で僕を見ている。
最近の僕の噂を知らないのだろうか。いや、この冷たい目はきっと理解っている。
ガーネット伯爵令嬢と婚約を破棄したばかりの、ろくな噂がなくて王族としても何の権力もなく、ただ死ぬのが怖くて屍のように生きている僕がロードクロサイト公爵家のご令嬢と?
「何故…兄上では無く…ですか?」
何故僕なのか。
ロードクロサイト公爵令嬢が持つ色彩は確かに、この妖精の加護を受ける国では好まれない色彩かもしれない。
でも美しい彼女には余り関係なさそうだし、色彩関係なくロードクロサイト公爵家との縁が出来るならと誰もがその縁を欲しがるだろう。他国ではそもそも色彩は関係ない事だ。
それに彼女の叔母は緑の指の魔女殿だ。
確か彼女は他国の王族にも非公式とはいえ求婚されていたと聞いたことがある。
それなのに醜聞まみれで醜く無価値な僕なんかと、何故。
暗い思考に耽っていたけど父上はため息でハッとする。
「リディア嬢たっての希望だ」
「え…」
信じられない事を言う父上に、僕はどんな顔をしていたのか自分でも分からない。
でも父上は何とも言えない顔をしたまま、言葉を訂正したりしなかった。
ロードクロサイト公爵令嬢を見ると、薔薇の妖精が座っていると言われたら信じてしまいそうな美しい微笑みを浮かべて父上の言葉を聞き僕を見つめてこくこくと頷いた。
「王家としてはリディア嬢にはジェイクを支えて貰えたらと言ったのだがなぁ」
やれやれと、2回目のため息をこぼした父上は本当に残念そうな顔をしていた。
そんな時ノックが鳴り「ロードクロサイト公爵がおいでです」と声が掛かる。
「遅いぞローレンス」
「いやいや、うちの娘と話したいから遅く来いって言ったのは陛下じゃないですか」
やれやれと言ってロードクロサイト公爵令嬢の隣に座ったのは彼女の父親であるロードクロサイト公爵だ。
彼は父上の古い友人であるらしく、とても気さくな雰囲気で父上と話している。
公爵はロードクロサイト家の特徴である淡いピンクの髪の色と、美しい淡いオレンジの瞳のとても容姿端麗な男性で、とても子供のいる父親とは思えない美貌を持っている。
そのため今でも社交界ではひっそりと彼に声をかける女性が後を絶たないとアマンダが言っているのを聞いた事がある。ただ、公爵は大変な愛妻家であり家族以外の女性には興味もないと。
「ところで、今はなんの話を?」
公爵が父上に話を振ると、父上は頬杖をついて「リディア嬢にはジェイクを選んで欲しかったという話だ」と公爵を少し睨んだ。
「私はリディアが望まない事はしたくないから、リディアがジェイク王太子殿下を選ばないなら婚約はさせられないなぁ」
表情を緩ませ令嬢を見る公爵は愛しくて仕方がないと言う顔だ。
公爵が令嬢を溺愛しているのは社交界では知らぬ人はいないという。ベラやアマンダが噂好きだからよく2人でお喋りをしているのを聞いていた。
ロードクロサイト公爵は、現公爵夫人リリー・ロードクロサイトに唯一無二の愛を捧げ結ばれたらしい。
「陛下、私はアルヴィス王子殿下以外には誰も望みません」
愛妻家だから溺愛しているんだろうなと、等と思考に耽っていた僕はロードクロサイト公爵令嬢の一言で現実に引き戻された。
すっと立ち上がり優雅に歩く姿は流石この国の筆頭公爵家のご令嬢だと感心してしまう程だけど、そんな彼女が僕の目の前で膝を付いて両手を組む。
ドレスが汚れることも厭わずに、その姿は聖女が神に祈っている様な神聖さがあった。
「殿下、この様に急な申し出で驚かせてしまった事…大変申し訳御座いません。婚約破棄されたばかりだと言う事も分かっているのですが…。絶対に貴方を幸せにするとお約束します!ですから、どうか…私と婚約してください!」
「も、勿論殿下のお気持ちを優先します!お嫌でしたら、お友達からでも…!」
顔を赤く染めて瞳をぎゅっと瞑るロードクロサイト公爵令嬢と眉間に皺を寄せている父上を交互に見ると、父上は公爵令嬢をみて朗らかに笑う。
「リディア嬢、もう既に婚約は成立している。君が先程サインした書類で私が認めたのだから、この婚約はまとまった。これからはアルヴィスと呼びなさい。そうだな?アルヴィス」
「…はい、父上」
父上がそう言うと瞳を開いて困惑した様な顔をしているロードクロサイト公爵令嬢に助け舟を出すように公爵が
「おや、陛下はさっき王太子殿下の事言ってませんでした?」と父上を見る。
「ははは、リディア嬢がジェイクを支えてくれると言うのであれば幾らでも替えられるという事だ」
そう言われた時の公爵令嬢の顔は僕にしか見えていなかったけど、表情がごっそりと抜け落ちた様な、全てを凍らせるような冷え冷えとする顔で、でも僕が見ているのに気づくと、一瞬で表情が蘇りちょっと恥ずかしそうにはにかんだ。
「アルヴィス殿下が義息子になるのですね。アルヴィス殿下の部屋はどんな部屋が好きですか?系統的に好きな部屋とか何か希望はありますか?」
公爵がニコニコと僕に声をかけてくれて、ロードクロサイト公爵令嬢もうんうんと首を降っている。
「リディアと婚約されるのですから、直ぐに公爵家にいらして下さい」
公爵は慈しみ深い眼差しをしていて、溺愛する娘の婚約者が僕みたいな社交界でも評判が最悪で、容姿も老婆のような醜い僕で不満はないんだろうか。不思議でたまらない。
「ローレンス…王妃がアルヴィスは成人まで城にいてほしいと言っていてな。アドレイドの代わりに成人するまで見守りたいんだそうだ。だから公爵家に行くのは成人後になる」
唖然としていた僕は父上が発した言葉を頭の中で再度繰り返し、成人後には城から出られる事に驚いた。
でも16歳まで後4年もこの環境で耐えて生きていかなきゃいけないのかと、目の前が暗くもなる。
「陛下、1つお願いがあるのですが…」
公爵令嬢が声を掛けると父上は微笑んで頷いた。
父上はこんなに優しそうに笑えるんだと何だか驚いてしまう。
「アルヴィス殿下は私の婚約者となりました。アルヴィス殿下を我が公爵家の政敵が狙わないとも限りませんし、叔母との交渉事で私の婚約者である殿下を狙う可能性もございます。そのため、お城にいる間も公爵家より護衛や使用人や住まいの環境等を整えさせて頂きたいのです」
「ふむ、良いだろう」
公爵令嬢がそう言うと父上は頷き、歓迎の意を示す。
公爵家からの支援は王家にとっても喜ばしい事の様だ。
「ありがとうございます!様々な事を陛下に毎度確認するのも、ご多忙な陛下の負担となってはいけないと思うのですが…」
「そうだなぁ、余は忙しくアルヴィスの事を余り構うことが出来ぬ身。私がアルヴィスに関する全てのことをロードクロサイト公爵家に一任すると、一筆残そう。それで良いかなリディア嬢」
「はい!ありがとうございます陛下」
その言葉を聞いて公爵令嬢はとても嬉しそうに顔を輝かせ、父上にお辞儀をした。
公爵はそれを見て紙とペンを父上に渡すと、その場で父上がサラサラと紙に何かを書き込む。
そして最後に机に行き玉璽を押した紙を公爵に渡した。
公爵はその内容を確認し公爵令嬢へと渡す。
「感謝致します、陛下」
公爵令嬢が正式なお辞儀をすると、父上は笑って
「アルヴィスの婚約者になると言うことは私の義娘になるということだ。そんなに畏まらないでくれリディア嬢」
と言った。
父上のこんなに穏やかな顔は久しぶりに見た。
というより父上に会うのも久しぶりなのだけど。
「じゃあ陛下、話も終わったみたいだし私帰ってもいいですよね?リリーと家でお茶したいんですよ!」
いい笑顔で帰ろうとする公爵を捕まえて父上は
「ローレンス、ちょっと付き合え!公爵夫人には毎日会ってるだろ」
「なにいってるんですか。陛下ともほぼ毎日会ってるじゃないですか…」
「会ってても普段は酒のひとつも飲めないじゃないか」
「仕事中お酒は飲まないでしょう普通」
2人は父上の私室の方へ向かう。
すると公爵は急にこちらを振り返って
「リディア、私は陛下の相手をしなくちゃみたいだ。先に家に帰ったら私は陛下に捕まってしまったすまないとリリーに伝えておいておくれ」
「ローレンス…お前って奴は…」
そう言う公爵を父上は小突きながらブツブツと文句を言って部屋から2人とも出ていった。