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僕が選挙の投票に行かない理由

作者: 辛口カレー

決して()められた話ではないが、僕はもう何十年も選挙の投票に行っていない。

僕の人生で選挙の投票に行った回数は、たったの2回だけだ。


成人して初めて投票の案内が来たとき、「選挙の投票ってどんな感じなんだろう」と思い、親と一緒に行ってみたのが1回目。

そして、おそらく30代のどこかのタイミングで嫁と一緒に投票に行ったのが2回目。


ただそれだけ。


1回目も2回目も、決して誰かに投票しようと意気込んで投票に行ったのではなく、ただ何となく親や嫁に気まぐれでついていったら投票場所に着いた、という感じだった。


この時の僕のように気まぐれでフラッと投票に行ってしまうと、いざ投票用紙に記入する段になって、()()と困ってしまう。


どの政党からどんな名前の政治家が立候補しているのかは候補者のリストを見れば分かるものの、どの政党が、もしくはどの候補者がどんな主張をしているかについては、事前にチェックしていないせいで、知識が無いから全く分からない。


候補者のリストに選挙公約とか政治信条なんかが併記されていれば、それを根拠に投票する事もできるのだろうが、残念ながら候補者のリストには所属政党と名前ぐらいしか書かれていない。


さぁ困った。

いったい誰に投票すりゃいいんだ。


まるで解答欄の選択肢だけが与えられていて、問題文が一切書かれていないテストを受けさせられているような錯覚に陥る。


誰の名前を書けばいいものか、さっぱり分からないから、

「とりあえず自民党所属の候補者にしておこうか」

なぁんて、適当に投票を済ませて帰ってきた記憶がある。


実際、当時の僕のように何の下調べもせずに投票に行くなんて、全くテスト勉強をしていないのにテストを受けに行くようなものだ。


「だったらちゃんと下調べしてから行けよ」って話だが、現職にせよ初出馬にせよ、ふだん誰がどんな活動をしてるかなんて正確に知ることは出来るはずがなく、たとえ選挙前に街頭演説を聞いたとしても、どうせ候補者たちは当選するために耳触りの良い事ばかりをアピールし、自分のイメージを悪くするような事なんて言わないに決まっている。


それは、僕らが入社試験や入学試験の面接で良い面ばかりをアピールし、自分のイメージを悪くするような事なんて言わないに決まっているのと理屈は同じである。

「あなたの趣味は何ですか?」と聞かれて、「ギャンブル」とか「パパ活」なんてバカ正直に答える人はいない。


僕らが入社や入学に必死になるように、街頭演説をしている彼らもまた、当選に必死なのである。

当選に必死ということは、言い換えれば、セルフイメージのプロデュースに必死ということだ。


彼らが語る内容には、本音だけではなく建て前が含まれている。

僕はそう考えているから、誰がどんな演説をしようが、僕にはそれを半信半疑で聞く事しか出来ない。


例えば、裏金をもらっている政治家は「私は裏金をもらっています」なんて言うはずがないし、「増税やむなし」と思っていたとしても、そう言うと印象が悪くなるから、選挙演説の時にはあやふやにゴマかしているかも知れない。


では、どの立候補者に対しても半信半疑で確信が持てない状況の中、いったい僕は何を根拠に投票すればよいのだろうか。

投票に際して明確な根拠が無いのであれば、当てずっぽうで投票する以外にないが、そうやって当てずっぽうで投票することに果たしてどれほどの意味があるのだろうか。


これは必ずしも僕だけの問題ではない。

例えば、「とりあえず現職を選んでおけばいっか」とか「選挙カーでその名前をよく聞いたから」といった理由で投票する人がもしもいるとしたら、それは当時の僕と大して変わらない。


仮にそのような態度で投票に臨んでいるのなら、「いい加減な投票をしている」と僕に指摘されても文句は言えないはずである。

そしてそういう人は、存外多いのではなかろうか。


考えてもみて欲しい。

なぜ選挙カーに乗ったウグイス嬢は、その立候補者が掲げる政策なんてほとんど口にせず、ただ所属政党と立候補者の名前をひたすら連呼しながら街を走っているのか。


答えは当然、そうすることで得票数の増加が見込めるからである。


では、なぜそうする事で得票数の増加が見込めるのか。

それは、選挙カーでウグイス嬢がひたすら連呼した所属政党と立候補者名を、実際にそのまま投票用紙に記入して投票する人たちが多数存在するからである。


でなければ、選挙カーがただ立候補者の所属政党と名前だけを連呼して走っているはずがない。


ということは、そのような選挙カーが街中を走っているということ自体が、街で聞き覚えのある候補者の名前をそのまま投票してしまうような、いい加減な投票者が多数存在している事を証明してしまっているとも考えられるわけだ。


このような状況でまともな投票ができている人は、果たしてどれほど居るのだろうか。

ていうか、投票前にそれぞれの政党と各立候補者のホームページやSNSをひととおり確認するなどして、しっかり比較検討してから投票している人はどのくらい居るのか。


そもそも、投票するにあたって正確な情報がウソ偽りなく国民に公開されているのだろうか。

政府や政治家にとって都合が悪い情報は、マスコミによって多かれ少なかれ隠蔽され、情報操作されているのではないか。


選挙の投票なんて、実はみんな適当でいい加減なのではなかろうか。

もっと正確に言うと、国民は誰であれ、当てずっぽうで投票せざるを得ない状況の中で投票しているのではないか。


だいたい、個人的に長い付き合いがあるならまだしも、ニュースや新聞記事やSNSを見たり、街頭演説を聞いたというだけで、その候補者が本当に信頼に足る人物かなんて分かるはずがない。


分かるはずがないのに、投票させられているのだ。

だったらそれは、当てずっぽうじゃないか。

そうして投票することが、果たして胸を張れることなのか。


「選挙権を持っていながら、投票しないのは無責任だ」と人は言う。


だがそれを言うなら、マスコミの印象操作に乗っかって、あるいは彼らの選挙演説に乗せられて、あるいは走っている選挙カーから聞いた名前に引きずられるなどして、たかだか選挙前の2週間ほどしかない短い期間の印象だけで投票してしまう人たちだって、同様に無責任であろう。


「いや、ふだんから私は立候補者の活動や政治信条を一人一人しっかりと見極めた上で、責任を持って投票しています」と、あなたは言うだろうか。


じゃあ聞くが、例えばあなたが事前にその人の政治信条や言動をしっかりと見極めた上で投票した政治家が、賄賂や裏金をもらっていたり、国費や税金を不正流用して私服を肥やしていたりした場合、あなたはその責任を取ってくれるのか。


あるいは、あなたが支持して投票した政党の政策のせいで、大して収入は増えず物価や税金ばかりがどんどん値上がりし、ますます庶民の生活が苦しくなってしまった場合、あなたはその責任を取ってくれるのか。


くれないだろ。

無責任なのは、あなたも同じではないか。


結局、僕らは投票しようがしまいが、選挙で選ばれた政治家や政党の活動に対して責任なんか取れるはずが無いのであり、その意味において、僕らは等しく無責任なのである。


投票しても無責任。

投票しなくても無責任。


僕らは誰も自分の投票した結果に責任なんて取らないし、取れないのだ。


そもそも、投票で国会議員を選ぶ『選挙』という制度自体が、選んだ国会議員に政治を委任(つまり丸投げ)するという制度に他ならず、誰かに政治を丸投げしている(正確に言えば、丸投げ()()()()()()())時点で、すでに政治は僕らの手から離れてしまっているのである。


ゆえに、たとえ選挙で選ばれた政治家たちが悪事を働いたり、裏金をもらっていたり、国民の不利益になるようなフザけた法案を可決したとしても、その責任は僕たち国民には無く、すべては国会議員の責任である。


ある政治家が問題を起こした時に、「その政治家を選挙で選んだ国民にも責任がある」というのは詭弁に過ぎない。

それは、子供が殺人を犯したとき、育てた親に殺人罪が波及しないのと同じ事だ。


実の子ですらそうなのだから、ましてや赤の他人である政治家がどんな政治活動を展開しようが、どんな犯罪に手を染めようが、たかが一票を投じただけの僕ら国民にいったい何の責任が問えようか。

政治家が起こした問題の責任は、政治家にしかない。

国民には波及しない。


同様に、政治の責任は選挙で選ばれた政治家(国会議員)が負うべきものだ。

最初から政治は、一般国民から政治家の手へと離れてしまっている。


これは、国民一人一人が選挙で誰に投票したかなんて事とはまったく関係ない。

政治の責任はすべて、選挙で選ばれた政治家たちが負うべきものである。


なぜなら、政策を決定するのは選挙で選ばれた政治家(国会議員)たちであって、投票した国民ではないからだ。

選挙で誰が選ばれようが、政策を決定するのは選挙で選ばれた政治家(国会議員)たちであって、国民ではない。


もちろん、国民は政治家の働きに期待を込めて投票している。

「この人なら、こういう政策を推進してくれるんじゃないか」

「この人なら、こういった政策には反対してくれるんじゃないか」

というように。


だが、そういった思惑とは別に、当選後にどんな行動をとるかは、すべて当選した政治家個人の判断に委ねられている。


選挙時に語った公約を、当選後に守るも守らないも、当選した政治家(国会議員)の判断だ。

公約を守らなかったからといって、その人の国会議員資格が剥奪(はくだつ)されるわけじゃない。


また、たとえ公約といえど、その後に状況が変化することもあるし、さまざまな議論を積み重ねていくことによって自分の考えが変わることだってある。

一概にそれが悪いとも言い切れない。


いずれにせよ、僕らは僕らが選挙で選んだ政治家の行動に干渉できない。

それぞれの思惑で僕らが政治家(国会議員)に期待するのは勝手だが、彼らは最終的には自らの判断で行動しているのだ。


ゆえに政治の責任は、いかなる場合にも、政策決定の場に立ち会っている政治家(国会議員)たちにある。

政治の責任を国民に押し付けるのは()めてもらいたい。


投票結果の如何(いかん)に関わらず、選挙の投票が締め切られた時点で、すでに僕らは政治責任を手放している。

僕らが手放した政治責任を一身に背負っているのは、選挙で当選した政治家(国会議員)たちなのだ。


言い換えれば、国民一人一人が背負っているはずの政治責任を、多数の得票を集めて当選した政治家(国会議員)たちの背中に乗せ換える手続きが選挙なのである。


出馬した選挙区に住む国民全員の政治責任を、選挙で当選した政治家(国会議員)が一身に背負うのだから、政治家の責任はとてつもなく重い。


だからこそ、政治家には多額の報酬が支払われているのだ。

それは言ってみれば、責任の重さに対する責任報酬でもある。


もしも政治責任が政治家(国会議員)だけでなく、その政治家を選んだ国民にもあると言うのなら、それに見合った責任報酬を我々国民一人一人に支払ってもらわなければ困る。


僕の場合は、そうだなぁ……。

年に500万円くらい支払ってもらえるなら、少しは政治責任を感じてあげてもいいかな。

議員所得には遠く及ばないだろうが、それくらい貰えるんだったら、政治について真剣に考えてみるのも悪くない。

何の報酬も無しに、ただ責任だけを負わされても困る。


だいたい、国民に責任があると言われても、漠然としていてそれがどの程度の責任なのかが分からない。

「政治の責任は国民にある」と言うのなら、それがどの程度の責任なのか、具体的に数字で示して頂きたい。


国民一人一人の政治に対する責任は、お金に換算すると年間で一体いくらに相当するのか。

ぜひその値段を教えてもらいたいものだ。


いや、教わるまでもなく、せいぜい小銭が数枚程度のものだろうと僕はタカをくくっている。

たかだか一国民に過ぎない僕たちの政治責任なんて、もしあったとしても、所詮は吹けば飛ぶような薄っぺらい紙切れ一枚ほどの軽さでしかない。 


そんな事より、国会議員が国会の採決時に投票を棄権することの方がよっぽど問題だ。

それこそ議員責任の放棄と呼ぶに相応しい。

それは、我々が託した政治責任をドブに捨てたのと同じことだからだ。

そのような国会議員は、議員資格を剥奪(はくだつ)してしまえばよい。

あるいは議員報酬を全額カットしてもいい。



……少し話が逸れてしまった。

話を選挙に戻そう。


選挙の投票日は日曜日と相場が決まっている。

だが日曜日は、たいていの社会人にとっては貴重な休日となっている。

もちろん、僕も例外ではない。


ただでさえ投票を無意味に感じているのに、その上、休みの日にわざわざ投票しに行くなんて、僕は到底そんな気にはなれない。


「期日前投票があるじゃないか」と言われるかもしれないが、どっちにしろ仕事がある日に仕事を放り出して投票になんて行けないのだから、(期日前の)休みの日にわざわざ投票しに行かなければならない点については何も変わらない。


僕は休みの日にわざわざ投票しに行きたくないのだから、結局僕にとっては、期日前投票なんてあっても無くても同じことである。


こういった投票の虚しさもさることながら、投票後の開票についての虚しさもまた格別だ。


テレビで選挙速報なんかを見ていると、まだ開票率が10%なのに当選確実が出ていたりする。

ひどい時には、開票率がたった1%で当選確実が出ていたりもする。


/**************************************/

/* ↓ 嘘を書いてます。後書き参照 ↓ */

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これほど投票者をバカにしている話も無いであろう。


開票率1%で当選確実ということは、実質、

「残り99%の投票なんて確認するまでもない。そのままゴミ箱に捨てちゃっていい」

と言っているに等しい。


例えば投票総数が10,000票だったとすると、実質9,900票がゴミ扱いである。


無論、実際にはゴミ箱に捨てられたりはせず、最終的には全て開票されて投票結果としてカウントされるのであるが、当選確実である以上、統計学的に見れば、どんなに票を数えても当選結果が変わることはなく、もはやそれ以降カウントされる票には何の意味も無い。


なぜなら、当選か落選か、選挙で重要なのはその一点だけであり、何票獲得しようが何票差をつけようが関係ないからだ。

大差で勝とうが僅差で勝とうが、当選は当選であり、そこに本質的な差は無い。


ゆえにこの場合、9,900票はゴミと同様であり、せっかくの休日にわざわざ投票に行った9,900人の時間と労力は全くのムダとなり、9,900人がただ貴重な時間と労力をドブに捨てただけという結果に終わるのである。

その9,900人は、最初から投票箱にゴミを入れてきたのと何ら変わりは無い。


これは極端な例だけれど、仮に開票率70%で当選確実が出た場合でも、実に全体の30%もの投票がゴミと化しているわけだ。


/**************************************/

/* ↑ 嘘を書いてます。後書き参照 ↑ */

/**************************************/


さらに現実的なことを言えば、もしも僕が選挙で誰かに投票したとしても、最後の1議席を争っている候補者同士の得票差が1票、あるいはまったくの同票でない限り、僕の投票行動が選挙結果に影響する事はあり得ない。


そしてそんな事が起きる確率は、奇跡でも起きない限りは、ほぼ0%なのである。

それは言い換えれば、奇跡でも起きない限り、僕の投票行動が無駄になる確率はほぼ100%ということだ。


当然、これは僕だけに限った話ではない。

あなたの投票行動が無駄になる確率も僕と同様、ほぼ100%である。


「自分の一票で日本の政治が変わる」

そう信じている人には酷な話かも知れないが、これが一個人から見た選挙の現実なのだ。

冷静に現実を見れば、日本の政治はいつだって、自分以外の人の投票結果によって決まっているのである。


選挙の結果は多数決によって決まるのだから、こんなのは当たり前といえば当たり前の話だ。

僕一人の投票よりも、僕以外の人の投票の方が圧倒的多数になるのは当たり前だからである。


このような現実を目の当たりにして、

「だったら、わざわざ僕が投票に行く必要無くね?」

と考えることは、そんなに罪深いことなのだろうか。

むしろ一個人として見れば、合理的で現実的な行動選択だったりしないのか。


選挙で日本の政治が変わる時が来るとしたら、それは僕が一票を投じた時ではなく、大衆を巻き込んだ大きなトレンドが生まれた時である。


たとえ僕が一票を投じたところで、大衆を巻き込むような大きなトレンドが生まれていなければ政権交代なんて起きないし、逆に政権交代が起きるほどの大きなトレンドが生まれた時には、たかが僕の一票なんて平気で飲み込まれてしまうに違いない。


そう考えると、ますます自分が投票に行く意味が分からなくなってくる。


僕が選挙の投票に行かない理由。

それは、僕が投票に行く意味をすっかり見失ってしまったからである。

読んで頂き、ありがとうございました。


(2024.11.18) 文中にコメントを挟みました。

注釈に挟まれた箇所は、勢いでひどい嘘を書いてしまっています。

他にも少なからず嘘があったりしますが、この箇所は特にひどい。

自戒の意味も込めて、原文はそのままにしておきます。


あと、選挙ではちゃんと投票に行きましょう。

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