第4話 家族
続きます。
リリアンナ先生のマナー講座を三日おきに五回。都合一五日後。朝食を俺の部屋に持ってきたリフィージーから、夕食会での両親との面会を告げられた。
転生してから数えてだいたい七十日くらい。転生した頃の麗らかな春はとうに過ぎ去り、中庭に出ても日影が恋しくなるようになってようやくという感じだ。
正直記憶を失っている故に両親から嫌われているんだろうかとすら思ったが、リフィージー曰く俺が意識を失った後、すぐ父親であるシャイルー伯爵に急な南方への出張任務が課されたからだという。
ナモア医師(やはり医師だった)とリフィージーが、俺に最低でも日常会話ができる程度の習得時間を与えるべきだと伯爵に進言したらしい。それで社交デビュー準備の為、王都在泊中だったハイド兄上が、俺の習得状態を確認する偵察要員となっていたということだった。
母上はどうかといえば、こちらも王都から北に離れた伯爵家所領の切り盛りで忙しかったらしい。一応それなりの貴族であるシャイルー伯爵家は、傘下というか寄騎として幾つかの小貴族を従えている。リリアンナ先生のチラナ男爵家はその中でも大きい方だが、御恩と奉公という封建制度の基礎は前世同様この世界でも変わりはない。
そして部下が多ければ揉め事も多い。特に王都から離れた場所に領地を持つ伯爵家としては、実際に現地に行って判断を下さねばならないこともある。仮に実力を持っていても、家人である城代や代官では判断を下すことができないこともあるのだ。
それでも夏の盛りを前に、ハイド兄上を正式に伯爵家嫡出長子として、王国貴族全てに正式に宣言する『七歳式』、いわゆる社交デビューに合わせて両親共に王都に戻ってきた。ハイド兄上やリフィージー達からの報告で、俺の言語習得状況に問題はないと判断したのだろう。
リリアンナ先生曰く、王族でもない限り家族の会食において特別なマナーは存在しないらしい。ただしマナーというモノは幼い頃からしっかりと身につけておかないと、成長して格式ある他家とのパーティーや社交で必ずといっていいほどボロが出る。そしてボロが出た貴族人は表立っては何も言われないが、今後ずっと陰口で過去を蒸し返されることになるという。
貴種というのは序列と切っても切れない関係だが、リリアンナ先生の恐らく実体験から来ているであろう熱心な指導に、俺はかろうじてついていくことができた。特に熱が入っていたのは別に理由があるようで、リフィージーがこっそり教えてくれたが、リリアンナ先生の一人息子もハイド兄上と同い年で、同時に『七歳式』に出る為、相当カリカリしているらしい。
「家族が再び揃って食事ができることに乾杯だ」
得意満面という以外に言葉の無い笑みを浮かべ、議長席で錫のコップを掲げて音頭を取る、どこにでもいるような中肉中背の、人のいい鹿毛頭の若い男が、こちらの世界の俺の父親であるシャイルー伯爵ロベルト。
「本当によかったわ。私、もうダメかと思ってましたもの」
美人というには無理はあるが栗鼠のような眼が愛らしく、対面席で笑顔を浮かべながら当事者を前にとんでもないことを言う、父親と同じような鹿毛頭の若い女が、こちらの世界の俺の母親であるシャイルー伯爵夫人パスティーエ。
「……ブライアンが今ここにいるのは、彼の努力の賜物です」
そしてムスッとした表情で両親に応えるのが、リリアンナ先生同様に鹿毛の髪をぎっちりと締め込んで、いつもよりも上物の衣装で俺の隣に座るハイド兄上。
以上に黒髪の俺を加えた四人がシャイルー伯爵家の全員となる。
あと執事のラーファン、女官長のリフィージー、厨房頭のミンナラ、トゥイーニーメイドが三人、カルワダ、ロザーラ、マリエッラがホール内に無言で控えている。厨房長が指示し、執事は父上の、トゥイーニーメイドが母上と兄上と俺の傍に控えて、皿の上げ下げを行う。リフィージーは監視役兼毒見役だ。
出された調理はまず想定される時代から考えれば見事だった。食卓に着いている四人分の食器は揃っていて、手掴みで香辛料ベタ付けの生肉を食べることはない。ただし白パンと果物を除けば、全て加熱された料理ばかりで前世のレトルト三昧と比較しても美味しいというにはちょっと無理がある。
それでも今朝まで何かいろいろな野菜を入れたオートミールか黒パンとドライフルーツ、それにサイコロ状の何かの肉が幾つかの生活だったことを考えればご馳走だ。
「ブライアン」
食事に最初に手を付けるのは父上であるのがマナーだし、一切の差配は議長席に座る父上の心ひとつだ。だから乾杯の後に、名前を呼ばれればそれは応えなければならない。俺はコップをテーブルに戻して立ち上がると、こちらを見る父に応えた。
「はい。父上。なんでしょう?」
「言葉の勉強はどうかね? どこか難しいところはないかな?」
「はい。ナモア先生が新しい本を送ってくださいます。リリアンナ先生もいろいろと教えてくださいますので、順調です」
「うむチラナ男爵夫人もブライアンの物覚えの良さをいたく褒めていた。これからも精進だぞ」
「はい」
散々お辞儀の角度が違うだの、アルファベットの書き順が違うだの、敬語の使い方が違うだの言われてたような気がするので、これは男爵夫人のお世辞だと思っておこう。
「ハイド」
今度は兄上が呼ばれたので、俺は腰を下ろす。そのタイミングに合わせるようにハイド兄上が席から立ち上がる。自然な仕草で、マナーとしても完璧だ。
「はい、父上」
「いよいよ次の月七日に七歳式が宮廷で開かれる事になった。言われた通りの準備は良いかね?」
「はい。先月より典礼院老のエモシオン子爵閣下より、直接儀典練習の指導を受けております」
「それはヴォイタバン伯爵の御子息と一緒にかね?」
ハイド兄上の返答の瞬間、父上の柔らかい顔の真ん中にある目が光ったような気がする。それに兄上も気が付いたのか一瞬体が硬直したようだが、机の下で一瞬俺側の手がきつく握られた後、何もなかったかのようにハイド兄上は応じた。
「はい。それにビボー卿も一緒です」
「そうか、そうか。それで子爵は何か言っていたかな?」
「三人一度に指導するのは骨が折れると仰せでした」
「あのジジ……いや相手は御老人だ。くれぐれも若さにかまけてご迷惑をかけないようにな」
「はい」
父上が悪態をつこうとしたのは間違いない。わざとらしくごまかしているのは、『好ましくはないが、怒っても仕方がない』と兄上に言いたいのか。父上の頷きにスッと音も立てず腰を下ろす兄上の横顔は確かに硬い。
「さぁ、食事にしよう! せっかくミンナラが作ってくれた料理だ。冷めてしまっては申し訳ない」
はははははっ、と何事もなかったかのようにグッと杯を傾けたわいもない話をする父。それににこやかな笑顔で応じながらカチカチと料理に取り掛かる母。表情一つ変えず腸詰を口に運ぶ兄。
これが貴族社会の家族の食事なのか。勿論、執事や女官長といった他人の目があるとはいえこれは少し行き過ぎのような気がする。リフィージーは俺が意識を失った時、両親とも感情丸出しで取り乱したとこっそり教えてくれたが、本当なのだろうか。
それに支配階級間の対立が家庭環境にすら影響があるとはっきりとわかった。だが聞く相手はリフィージーやリリアンナ先生ではダメだ。きっとまともには応えてくれないだろう。俺は四歳児らしく、リリアンナ先生の教えの七五%活用しながら食事をするのだった。
※
夜半。ケリーが俺をベッドに寝かしつけ、部屋を出て行った後、眠気に引きずられないようベッドから抜け出すと、扉に耳を当てケリーや使用人達の足音が聞こえなくなるのを待って、部屋を抜け出した。目標は隣の部屋。
廊下で見つかれば連れ戻されてリフィージーの説教を浴びせられること間違いなし。だがあの兄の機転の良さに賭け、俺は裸足で廊下を進み、兄の部屋をノックする。
「誰だ?」
扉の向こうから聞こえる兄の声に、俺は応えず再びノックを四回。すると内鍵が開かれ僅かに扉が開く。
「……お前か、どうしたトイレか?」
「違います。とにかく夜更かしするとリフィージーに怒られるので入れてください。ハイド兄上」
「見つかったら俺も怒られるんだぞ」
口ではそういうハイド兄だが、肩を竦めるだけで俺を部屋に導きいれた。もう部屋の火の始末も任されているのか、机の上には掌サイズの小さな蝋燭立てがある。何かの勉強をしていたのだろうか、数冊の本と共に、蝋板が何枚も重ねられている。
ハイド兄は一度部屋を出て俺の部屋の扉が閉まっていることを確認すると、俺にベッドに座るよう指差し、自分は机の前に置いてある椅子に座った。
「で、こんな夜中に何の用だ。ブライアン」
「今日のお食事の話です」
「なんだ、飯の話か?」
「違います。父上が怒った話です」
俺の一言に、小さな明かりに照らされたハイド兄の顔色は即座に変わった。やはり兄も父が不満を持っていることが分かっていたのだ。しばらく黙っていると、ハイド兄はぼさぼさに解かれた髪を掻いた。癖毛なのか、それとも纏まっていた印象が強いのか、頭が突然大きくなったように見える。
「四歳のお前に行って理解できるかわからないが、ウチの家はヴォイタバン伯爵の家やエモシオン子爵の家とは仲が悪いんだ」
「派閥ですか?」
「お前、もうそんな言葉も知ってるのか。リフィージーが教えたのか?」
「辞書に書いてありました。意見の違う人の集まりと」
これは勿論嘘だが、俺が聞きたい情報を引き出す為には、嘘つきにならざるを得ない。だが今日の兄は少しショックが残っているのか、当然のように聞き流して応えてくれた。
「そう派閥。ウチの家、シャイルー伯爵家は小さいながらも派閥の惣領家だ。ここより北に領地を持っていて、ビボー達と仲間を組んでいる。あぁ、ビボーってのはリリアンナ先生の息子で俺の親友だ。今度会わせてやる」
「じゃあ、ヴォイタバン伯爵の子供は?」
「リーフォンな。そいつも俺の親友だ。ただヴォイタバン伯爵の家はウチよりももっと大きなカンパレイラ公爵家の家来でな。このカンパレイラ公爵家の当主が、父上と仲が悪い」
つまりハイド兄は、父と仲の悪い家の寄子の子供と仲が良く、また七歳式の行儀指導を一緒に受けているということで、それに父が臍を曲げたという想像に間違いはなかった。
だがそれが分かっていながら何故、敵対派閥に借りを作るようなことをするのだろうか。俺が首を傾げてわからないふりをすると、ハイド兄はお前じゃわからんかもしれんがな、と言わんばかりに腕を組んで二度頷いて説明してくれる。
「父上は気を悪くされるだろうが、ウチの派閥は小さくて王宮儀式を取り仕切ったことのある典礼官……ああリリアンナ先生の偉い人みたいな人がいないんだ。それにエモシオン子爵は前典礼卿で、この王国でそういうことに一番詳しい人なんだよ」
「じゃあ、父上と仲のいい派閥にはそういう人はいないの?」
「……いないわけじゃないんだが、まぁエモシオン子爵に比べるとちょっと劣る。ブライアンちょっと考えてみろ。いい先生に教われば、より多くのことが学べる。派閥は大事だが、機会を逃すのは良くないだろう?」
痛いとこを突くなという苦笑と、向学心は嘘ではないという意思と、それ以外にもある理由……脅迫とかじゃなく友情とか、そういう兄が大切にしたいと思っているものが混じった複雑な表情だった。たぶんリーフォンという同い年の友人が兄にとって大切な存在なんだろう。
前世四〇年生きて、俺は結局そういう友人を作ることができなかった。勿論小学生の頃友達はいっぱいいたけれど、中学、高校と上がっていくたびにその数を減らし、大学を卒業して一〇年後には皆結婚して友人は画面の中のSNSにしかいなくなった。
「リーフォンさんにもこのお屋敷で会えるかな」
敵対派閥の子供を屋敷に招くなど、父はあまり認めないような気はするが、子供会みたいなことをこの屋敷で開ければ単純にいいなと口に出した言葉に、兄はちょっと驚いた後小さく鼻息をついて肩を竦めて言った。
「そうなればいいな」
諦観と期待。それが綯交ぜになった兄の顔は、頭が良くてもやはり七歳児のものだった。
初投稿 222/01/05 17:47