後編 ~キャンバス~
翌日、ジャンは美術館へ出向くことにした。なにはともあれ、参考にする画家の絵の現物をあらためてよく観察するところからだった。それから図書館にも行き、使われていた絵の具や筆、キャンバスについても資料や文献を漁った。もちろん同じメーカー、ブランドのものを手に入れるつもりだった。こうした仕事はとにかくディテールにこだわる必要があった。それらはジャンが常々思っていることだった。評論家気取りの素人連中相手ならいくらでもごまかせるが、プロの鑑定士あるいはアマチュアでも高度な知識や観察眼を持った奴の目を欺くには徹底的にというわけである。
この道の方面では、それなりに知られている彼である。突然、絵の具やキャンバスを買いに出かけたとしても、とりわけ不審に思われることはないだろうと思われた。
ジャンはついでに、顔なじみの画廊のところへも顔を出してみた。
「これはジャンじゃないか? 久しぶりだね。どうだい最近は?」
彼が店に入るなり、聞き慣れた明るい声が聞こえてきた。
「まあ、いろいろ忙しくてね。やっと絵描きに専念できそうなんだ」
「そりゃよかった。そうだ、最近新しい絵が入ったが、見ていくかい?」
「ああ」
そして彼の前に現れたのはまさしく印象派の絵で、しかも今探している画家のものだった。
「印象派?」
「お、鋭いね。その通り。まあ、どちらかというと好みじゃないけどね」画廊はそう言って苦笑した。「とにかく、日本人にはいつも人気だから、いい稼ぎになる」
「ふーん」
それは郊外で描いたものだろう。田園風景をモチーフに、遠くには街の建物と思しきものが描かれていた。絵の大きさは七号か、八号程度はありそうだなと彼は思った。ただ、参考に手元に置くならなるべく小さい方がいいと考えていた。
「どうだい? 買う気はないかい?」
画廊は聞いてきた。
「そうだねぇ、もっと小さいのはないのか? もし買うなら、部屋にさりげなく飾れそうなのがいい」
「小さいのねぇ」
「できれば一号がいいね」
「一号? さすがにその大きさは無いよ。今のところは」
「そうかい、残念だな」
「まあ、代わりと言っちゃあれだけど、」画廊は一度奥に姿を消した。「大判のパンフレットがある。カラー写真入りだよ。せっかくだから渡しておく」
ジャンはついてでに他の絵も見て回った。
「レプリカだったら、取り寄せられないこともないけどね。でも、君ならそれ以前にレプリカを自分で描いてしまいそうだね」
「かもな」彼はそっけない笑みを浮かべて答えた。
贋作を依頼されたことは過去に何度もあったし、極秘裏に絵の修復を頼まれたこともあった。だが、存在しない架空の名画を制作してくれというのは、ちょっと奇妙な気がしないでもなかった。例えて言うなら、人探しにおいて本人ではなく適当なそっくりさんを探してくださいと言われたようなものだった。彼は心の中で呟いた。まあ、絵描きは趣味の延長である。俺にとって美術の世界はよく分からないことも多い。
不用意に深く立ち入らない。
それは裏側の世界の稼業に身を置く上で、彼が固く守ってきたことだった。下手なことをすれば消される。それは彼自身が誰よりもよく知っていることであった。
一つ考えられる話としては詐欺の類だろうと、彼は考えた。「有名画家の秘蔵作品。まだ世に出回ったことのない、貴重な作品です」とか。たしかに、そんな売り文句なら、素人のコレクターに高く売りつけることもできそうだと思った。
画材と道具をそろえて制作を始めると、時間はあっという間に過ぎていった。そうしているうちに、依頼主である男性が再び尋ねてきた。
「進み具合はいかがですかな?」
「ええ、順調ですよ。もうじき完成です。ご覧になりますか?」
「ああ、ぜひとも見せてくれ」
ジャンはイーゼルに乗せてある絵を示した。そこにはトゥルーヴィルの浜辺を思わせるような、海辺をモチーフにした絵が描かれていた。
「なかなかの出来じゃないか」男性は感心したというようなため息をついた。
「そう言っていただけると、光栄ですね」
「追加の注文を、してもいいかね?」
「なんでしょう?」
「しかるべき人達がこの絵を吟味したら、偽物だと分かるように細工をお願いしたい」
ジャンは思わず眉をひそめた。贋作の場合、たいていはバレないようにと、念押しをされることがほとんどだった。それが偽物とわかるようにしてくれとは、いったいこの依頼主は何を考えているのだろうか、と彼は疑問に思った。
「そうですか……」彼は顎を軽くさすった。「まあ、リストや制作記録に無い作品だと、十分に疑われるとは思いますけどね」
「そういうものか?」
「必ずしも、というわけではありませんが」
「うむ……」
ジャンは絵に視線を向けて続けた。「おそらくは、サインの書体を細かく鑑定されればバレるでしょう」
「わかった。それならそのまま任せるよ」
「贋作なら、もっと話は簡単なのですけどねぇ」
「それはどういう意味だね?」
「それはですね……わざと小さな相違点を作るわけです。そうすれば、区別がつきますから。それに、場合によってはそうしておかないと、オリジナルがどれか分からなくなる。なんてこともありますからね」
「そうか、」男は納得した様子だった。「なかなか、この世界も奥が深そうだ」
「いえいえ、私が知っているのもほんのわずかなことばかりですよ」
ジャンは、依頼主がちょっとした富豪だろうと見当をつけていた。だが、依頼を受けて描いた絵の使用目的はさっぱりだった。なにか小さくない計画を立てているに違いないとは思っていた。この絵はその小道具になるのだろうといった趣があった。
「君はなかなか誠実そうだね」
「そんなことはありません。仕事に忠実なだけです」
その言葉に老人は小さく笑った。それから部屋の中をゆっくりと見渡した。
「それにしても、絵描きだけで十分に暮らせるのではないだろうか?」
「希望はそうですけどね。なかなか世の中上手くはいかないものですよ。稼業を嫌でも引き継ぐように運命づけられていたみたいで……」
ジャンは少し警戒した。なにか探りを入れられているのか? それともただの世間話か? 訝しく思いながら相手の様子をうかがった。
「なるほど。それじゃ……君は、口は堅い方だろうね」
「そうでなければ、仕事を続けるのは難しいでしょうから」肩をすくめて答えた。
「まあ、それはそうかもしれないな……」男は少々躊躇いがちに続けた。「実は……ほんとうのところは、私の妻を殺してもらおうかと、そういう依頼を考えていたのだ」
「ははあ」
ジャンは小さくうなずいた。おそらく、きっと遺産がらみのことだろうか? なんとなくそう考えた。ただ、それがどうして架空の名画の制作依頼に変わったのだろうかと、少し不思議に思った。
「まあ、金持ちの年寄りの悲しい話だね。遺産相続のことで、あれこれと妻とその親族の良からぬ噂を耳にしてね」
「そうですか」
「殺しを依頼するのは造作ないことだと思った。が、やはり気が引けた」
老人はどこか遠くを見ているかのような様子だった。
「それで、ここに訪れてみたとき、たくさんの絵を目にすることになった。なにか……彼らを一杯食わせるような、あっと驚かせるようなことをしてやろうとひらめいたんだ。殺しを頼むよりよりもマシなことをね。それで計画を考え直そうと、一度出直したわけだよ」
そう言うことか、これは面白い展開だな、とジャンは心の中で呟いた。
「こう見えても、私は大病を患っていてね。医者の話じゃ、もうそんなに長くはないらしい……」
「だから余計に、財産のことでよからぬ動きがみられるという訳ですか?」
「まあ、そういうことだ」
そこでジャンは依頼主の男の目的がおぼろげながら分かった気がした。
「それで、つまり、偽の名画を掴ませようということですか?」
「そうだな、ちょっとしたペテンにかけてみようということだ」男は苦笑交じりに答えた。
完成した絵画の送り先は、とある銀行の貸金庫を指定された。おそらく、秘密に保管していたといことを装いたいのだろうとジャンは思った。それから彼は、絵を入れる木箱や梱包材にもこだわった。わざとくたびれた古いものを探してきて使った。
全てを終えてしばらくたったある日の午後、ジャンの部屋に郵便の小包が送られてきた。彼は最初、爆弾でも送られてきたかと訝しく思った。だが、何のことはない、中身は件の残りの支払いだった。実は前金十万フランだけで、もしかしたら踏み倒されるのではないかと、少しばかり心配していた。ともかくそれは杞憂だった。
ビニール袋でくるまれていたが、銀行で出したばかりのような、留めてある封も取ってないきれいな五百フラン札の束なのはすぐに分かった。
どのみち口座に振り込まれるのも少々問題があるし、小切手なら尚更であった。ジャンは、依頼主は訳ありの支出に対しては、それなりに要領をわきまえていたようだ、と思いながら包みを全部開けた。札束のほかには、手紙らしき封筒も入っていた。だが、手紙はすぐに開けず、そのまま本棚の上に置いた。彼が今、関心を寄せているものは紙幣の方であった。
彼は束を一つずつ丁寧に数えてみて、約束通りの額があることを確かめた。
「この収入は後で金にでも替えて、貯えにでもするか」
呟きながらキッチンの棚に隠してある金庫に紙幣の束をしまい込んだ。
無事に支払いも受け取って安堵した彼は、それから街に買い物へ出かけた。
食料品とワイン、それから新聞を買って戻った。夕食の支度を整えて席に腰を落ち着けると、彼は何気なく新聞を広げた。ページをめくっていると、とある記事が目に飛び込んできた。
“某富豪の屋敷、火災で焼失”
そして、屋敷の主と思われる人物の写真も載っていた。それはあの依頼主にそっくりだった。
「まさか……こりゃ、とんでもないことになったな」
さらに記事には、屋敷の主人は行方不明になっており、現場で見つかった遺体から火災で死亡している可能性が高いと書かれていた。加えて、富豪の遺産相続の問題や事件と事故との両方の可能性から捜査が行われている。ということも書かれていた。
新聞をたたむと彼は手紙のことを思い出して、本棚に置いていた手紙の封筒を裂いて中身をあらためた。
こそには依頼主であった男性の直筆と思われる文章が書かれていた。
“ ひとまず、私の依頼に答えてくれたことには感謝の意を示すことにする。貸金庫に例の絵が運ばれたことも承知している
……
おそらくこの手紙が君の手元にあるということは、もう私が君に会うようなことはないということだろう。そして、残っているのは、隠し口座のわずかな残高と君の描いた絵だけかもしれない。以前話したが、私はもう先が長くない。それに病気で苦しみながら死ぬのはごめんだと思っている。私の財産をめぐって、親族の間で争いが起きるようなことも望まぬことだ。遺産を死んでも人に渡さないというほど、私は強欲ではないが、強欲な人間に渡すくらいなら焼いてしまった方がましだと考えている。もちろん一切合切を全部だ。
……
たしかに、私は仕事の依頼はしたが、見ず知らずの君に手紙をかくというのも奇妙なものだ。ただ、事実を伝えておきたいような気になったのだ。
というよりも、誰かに知ってもらいたいのかもしれない。それに君のような稼業なら、この手紙を公表するようなこともしないだろう
…… ”
手紙にはほかにも自身の人生のことや、血のつながりのある子供がいないこと、ここ最近は孤独を感じていたこと等々、身の上話についてもいくつか書き綴らていた。
手紙を読み終えた彼は、なんだか全身の力が抜けるような思いだった。手紙の内容からして、男性が自身で屋敷に火をつけであろうことは容易に想像できた。
「はぁ……あの爺さんは、最後の最後に、派手にやらかしたもんだな。にしても、強欲な人間に渡すくらいなら、とは」
それから自分が描いた絵画のことを考えると、彼の顔には皮肉のこもった笑みが一瞬浮かんだ。まさか偽物とは知らずに、著名作家の絵画が残っていたとぬか喜びする人たちのことを思って……。